見出し画像

物を決まった位置に置かない。――「定位置」ではなく「可動域」という発想

 先週に私の部屋にドラえもんが来ました。

 私の机の上にはタイムマシンがあり、そこからドラえもんが突然に現れた。

 ドラえもんは野比のび太の部屋の机の下にあるタイムマシンから現れたという話が有名です。
 のび太さん――私は源静香ではありません笑。――の部屋のタイムマシンは机の下ですが、私の部屋のタイムマシンは机の上。

画像1

 最近に十年振りに新調したマウス――初めての無線マウス。――と共に映るのは1953年から1981年までの28年に亘り京王電鉄の車輛として運用されていた京王2700系。
 その京王2700系が来た日の前日にドラえもんが来、そこで私はタイムマシンで少なくとも39年の年月を遡ったことになります。
 1981年に私は6歳。京王2700系にはごく短い間ではありましたが乗ったことがあり、その時の「古くて何か怖い…。」という印象が残っています。しかし、何でも新しいものがありがたいと思われていて私も子供心にそう思っていた当時はそうでも、今に見るとそれは実に合理的で美しいと感じたりします。

 タイムマシンの話に戻ると、のび太の部屋は「古くて何か怖い…。」というような感じとは違う意味で「何か怖い?」と感じませんでしょうか?

 それをいきなり答から云うと――いきなり云うしかないほどに単純なことなので。――、のび太の部屋はあらゆるものが常に定位置にあるということです。

 タイムマシンのある机をはじめ、ドラえもんの寝床である押入れも何も、いつも同じ、寸分も移動することなく配置されている。
 それを見てのび太の部屋は何といつもきれいに整理整頓されているのかと思うかもしれませんが、それは認識の罠だとここに語ります。

 勿論、整理整頓を否定するのではなく、むしろ、整理整頓――または、清潔清掃躾の5S――をより徹底すべしということを語るのですが、そも、整理整頓――を含む5S――の意味するものは何かということです。

 のび太の部屋のような整理整頓は実は悪い整理整頓です。5Sの内の2Sにはあてはまる整理整頓を出来ていると見做したとしても、それは5Sの満足にはならないのです。
 のび太の部屋だけではなく、柔道十段の父野比のび三の部屋も、彼はいつも定位置に座っています。
 そこから窺えるのは、野比家は二流の典型であるということです。二流とは何かということについては、『面接の達人』で知る人ぞ知る有名な中谷彰宏さんの本の数々を読むとほぼ分かります。

 「定位置」――それは合理的で5Sが成っているかのように見えて実は二流で非合理的で5Sの実現とはいささか遠いといわざるを得ない観念なのです。

 「物を決まった所に置く。」――まずそれが良くありません。

 尤も、物がそこに置いてあるのか、どこにあるのか分からないような状態はもっと良くありません。それはいわば二流以下の三流です。
 しかし二流なら三流よりは良いではないかというのではいけません。人間は自分より下ばかりを見て自分と比べるようではいけません。

 物が決まった所に置いてあるならどこにあるのか分からないよりはかなり良いではないかと思いかねませんが、そも、「決まった所」には何の根拠があるのかということを考えなくてはなりません。

 実は一流の私も、そういうことで目から鱗が落ちるような気づき――わざとわざとらしく言います。――が最近にありました。
 最近に倒産をして取引先による買収により事業が存続することになった私の勤める会社で、少し前まではいつも定位置に置かれていた備品等が最近は定位置に置かれないことが多くなっています。
 その少し前と最近のどちらが良いかといえば、最近の定位置に置かれない状態。

 ――さて、どういうことでしょうか?

 大切なのは可動域であり定位置ではありません。

 私は最近に手指の捻挫をしたのでそれもその気づきの一因ですが、関節には可動域というものがあります。関節だけではなく軟骨や内臓などにもあります。あるものがその範囲内なら動けるし動いてよいというもの。

 物を置く所、即ち整理整頓には、「ここが決まった置場だ。」という定位置ではなくその範囲内ならどこに置かれてもよいという可動域が存在します。
 尤も、その可動域外に出てしまっては駄目です。製品商品の品質についてと同じく、あくまでも許容誤差の範囲内なことが必須です。

 自分の体にせよ職場の物の置場にせよ、その可動域を適切に認識することができること、それが野比家のような二流でも三流でもなくドラえもんやドラミちゃん若しくは出木杉太郎のような一流を目指し得る条件。
 尤も、漫画本やテレビではなく映画においては、のび太はドラえもんの存在を媒介として少しでも一流に近づく姿勢が見られます。

 物を決まった所に置く、それが整理整頓だというのは一つの思考停止です。
 何でそこに置くことに決まっているのかという根拠を認識し及び再認識する思考の営みを放棄してしまうようなものだからです。

 可動域とは、或るものが前にあった位置と今ある位置とを移動したということが考えなくても一目で分かることが条件になります。
 「あれ?どこに行ったのか?」と考えて探し始めてしまうのでは、可動域の範囲内にあるとはいえません。
 また、その移動の事実を物理的に一目で認識し得るだけではなく、その物が何のためにあるのかという目的に適う所にあることも条件になります。

 ――ということをよく考えると、それはあまりにも当たり前過ぎて言うまでもないことではないかと思うかもしれませんが、少なからぬ人々が「物は決まった所に置くこと。」などというような金科玉条のような観念に縛られ、それを仮に理解することができても実際にはできずに意味もなく定位置というものにこだわり続ける例の一つが鉄道の駅における整列乗車やエスカレーターは歩くな、二列で乗れなどという意味不明な因習や提起です。物を定位置に置くことにこだわることにより、自分自身の体をまでも、乗車位置やエスカレーターの右側(大阪は左側)などという定位置を常に確保しようとし、それにより周りの人々の通行を妨げていても自分は決まった習慣を守っているのだから文句をつけられるいわれはないと居直る。
 日本の鉄道は常に停止位置にぴたりと停め、常に定刻に到着発車をするという――それそのものは紛れもなく有意義なことではあるけれど、――ことが過剰に称揚され延いてはそれが諸外国と日本の違いだ、日本は素晴らしい国だなどといって世界を見下すような姿勢もそれを助長しているでしょう。

 何でそこに置くことに決まっているのかという根拠を認識し及び再認識することが必要だということは、勿論、物を置く所や自分の身を置く所が頻繁に変わることは良くないということでもあり、いわば「大体その辺りに」という認識と習慣が継続することは必要です。

#5S #整理整頓 #片づけ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?