ものごとの始まりは定義から:例えば「宗教」とは何かとか。
直前の記事『スピノザ哲学と日本の弱み:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教 その3』にトヨタ生産方式の改善(カイゼン)には二つの考え方:「なぜを五回繰り返す。」と「何が問題なのかを五回繰り返す。」があると語りました。
「なぜを五回繰り返す。」はトヨタ生産方式の誕生以来の古典的切口。
「何が問題なのかを五回繰り返す。」は前者の批判的継承から生まれた現代的切口。
しかし、前者が新しいことには踏み出しにくいという難があるが後者は問題の認識そのものが立ち消え易いという難がある。
とはいえ、後者、「何が問題なのか」を考えるということは問題の定義を考える、定義づけるということで、日本に大きく欠けている物事の定義を重視する姿勢は窺えます。
定義が明らかでないままに幾ら改善を考えても叶わない。
前者の古典的方法は工程の目的と手段の定義が予め明らかなこと、即ち見える化が行われていることが条件になる。
しかしそれが十分に行われているとは限らないので後者の現代的方法の必要が認識され出した訳です。
何をどうするべしかの前に、それが何であるかの認識が必要。
上の二つの瓶については一目瞭然ですね。
砂糖と塩はそもそも色が違うので「砂糖」・「塩」と書いておく必要がありません。中身の見える容器を使えば見分けられます。
塩と重曹は色が同じで性質にも重なるものがあるので書いておくことにより見分けられるようにする必要があります。見分けられるだけではなくそもそも重曹とは何かにつき注意を促す必要もあり、それが「食用可」の表示です。可と表示するということは不可のものもあるということです。
補充上限とは蓋を開ける時に跳ねて出て来ないようにするためです。蓋のパッキンがきつ目なので開けると中身が跳ねることのある瓶だからです。
物議を醸するかもしれないのは暦の「前月中には張替えないこと。」の表示です。
‘Just in time’とは間に合うということなので、2月の暦は2月が始まるまでに準備しておかなければならないと思いませんか?
それは間違いですキリ!
1月31日23時59分59秒...までが1月です。
そこまでは未だ1月なので1月の暦を表示していなくてはなりません。
故に2月の暦には2月になってからしか架け替えられないのです。
別に暦が張替えられていなくても1月が過ぎて2月になったことは認識の可能な不動の事実なので、2月1日に1月の暦が架けられていても農problem。
何となく、大井町線(旧田園都市線)の二子玉川〜溝の口は月末区間みたいな感じではないでしょうか。溝の口〜中央林間は来月。
毎日溝の口駅を乗り降りしていながら先日に初めて気づいたのですが、大井町線の普通列車には緑普通と青普通があり、高津駅と二子新地駅には停まらない緑はいわば準急で青は各駅停車。
そんな箸渡しのような月末の区間をさーと通過するか各駅停車で行くかというのは人間の過ごし方を連想させるなと思ったりします。
ということは、私は未来から現在に来ている(「美しい時代へ。」ではなく「美しい時代から。」)、ドラえもん一族のような人なのですね:何しろ10万47歳なので。
2月1日が2月1日であるということの前に、1月31日が1月31日であることが定義されることが大切なのです。
そうしないと桜蔭にも開成にも受かりません。
因みに私が2月1日に受けた学校は受かりませんでしたが2月2日に受けた学校は受かりました。
2月4日に受けた学校は補欠48番で、その学校の先生はあくまでも私淑ながら私の自己同一性の不滅の一部となっています。
暦とは何か。
時間とは何か。
それとは何かという定義を問う題が入学試験の問題にもあると良い。
昭和の試験は漢字を知っているかや計算ができるかです。それは依然として大切です。
しかし問題は試験には出ない漢字や業務には使われない計算は知らなくていい、できなくていいという風潮になったことで、昭和を遠く過ぎる令和の今もあまり変わってはいないようです。平成末期に逸ったテレビの学び直し番組なんかも、試験に出る事柄ばかりです。逆に昭和のワードプロセッサーでは表示が不可能だった画数の多い本当にどうでもいい漢字はコラム記事みたく偶に出て来る、うざい。
去年辺りから新聞などが誤字や誤文法、誤語法を改めるようになって来ていると見て取れ、ツイッターの利用者等などもそれに影響されてか正しい字句の文のツイートが増えてきていますが平成後期は新聞やテレビにも誤りな字句が多く実に惨憺たる言語風景でした。何でかというと試験には出ないからです。また、平仮名で書くことは恥ずかしいという識字率が急速に高くなった’60年代以来未だに根強い世間体主義のため、誤りでも漢字で書かないと莫迦にされると思っているらしいこと、逆に「風の温かさにふれてみる、」などわざと平仮名で書く気色悪い(キモい)文筆家もいますが。
それとまあこれは私もあまり知りませんが、学校が漢字を教える際には日本語の音訓読みに加え北京中国語の、私立学校は更に台湾語の字体と読みを教えるべきです。
日本人は英語が苦手といわれますが、何でかというと近場の中国語を読めないからでしょう。中国語が分かれば英語も分かる。言語の「重要性」に優先順位をつけると最優先の日本語も駄目で二番目の英語も駄目で…と言葉そのものに弱くなる。
これはradicalな案ですが、国語、中国(台湾)語漢字と英語を統合して言語という二時限枠の教科にするのも良い。中国語は漢字だけなので国語の教師が兼任して英語の教師との二人が同時に担当する。勿論ぼけとつっこみは必須。
それだけ大変だと成績が悪くても恥ずかしくない。楽だからそんなこともできないのかと格差の問題になる。
さて、学校教育に道徳の教科を取り入れようという動きになっています。
私立学校には既に行われて久しい学校も多く、代わりに宗教の教科のある学校も多い。
道徳科の導入については何というか、私は総論賛成各論反対という感じで多分それが最大多数ではないでしょうか。
先ず以ては、道徳、moralsとは何かの定義があやふやで、倫理、ethicsとの別も広く認識されてはいないよう。
簡単に言うと、道徳とは言動の実践のあり方で倫理とは規律の前提となる価値。道徳は人が対象で倫理は森羅万象などの人以外が対象なのです。故に人の言動を倫理に悖るとか不倫ということは非道徳的です。倫理の所在は人にはないからです。
例えば犯罪などの違法行為が処罰の対象になるかどうかについての倫理は犯人などの行為者がどうであるかを問うものではなく或る行為またはその波及現象に関し行政・司法機関がどう機能または判断すべきかを問うものです。犯人などの行為者などががどうだからという情状酌量は倫理的判断ではなく道徳的判断です。
倫理が保たれるには道徳が必要なのでそれらは無関係ではないですが問うものが異なる。
そこをあやふやにしての道徳教育の導入とは如何なものか。
宗教は道徳と倫理の何れをもその一部に含みます。
では宗教とは何か?
神を信ずることか?
:3点中1点位の解答です。
無宗教で神を信ずる人もいます。
神というもののない宗教もあります。
宗教には神を信ずることとするものが多いことは確かですが神を信ずることは宗教の定義または条件ではありません。
宗教は思想の一種です。
故に食べたら歯を磨くということも宗教になり得ます。私はそう信じています。
しかしそう信じて食べたら歯を磨いておればそれは宗教かというとそうではありません。それは食べたら歯を磨くという思想の実践です。
それを信ずる人々を集めて歯磨き講習会や啓発活動を行うなら、思想団体になります。
その歯磨き思想団が選挙に出れば政治団体になり、選挙に受かり所定の議席を得ると政党になります。
選挙に出るかどうかはともかく、歯磨き思想団がその思想の永続的維持を主たる目的としてその公的設立を政府に申請して認可される(日本なら宗教法人法。)と宗教団体になります。
その認可の理由は強い歯でかみかみするようになるからではなく思想の自由を保証されるからです。
宗教は国に認められないとならない、先ずそこをおさえて下さい。
思想の維持を主目的とするということは政治活動や経済活動などの他のことも主目的を損なわない副次目的なら認められます。
しかしまあ、思想の維持が主目的としてまともに継続されているかどうかを判定することはなかなか難しいものです。大抵は報告書の類を信用するしかありません。
思想の維持の手段としては学術や修行などによる研鑽活動と宣伝や救済などによる宣教活動が伝統的二大要素です。というか殆どそれらしかありません。
礼拝などの祭儀は実は宗教の必須の条件ではありません。しかし祭儀が最も親しみ易くまた思想の維持に効率的でもあるので多くの宗教が伝統的慣習として祭儀を最重視しています。実際に主催者の研鑽がないと祭儀も出来ない場合が多いです。
宗教には神秘的なるもののある場合が多いですが、やや皮相かもしれない見方をすれば神秘的なるものは思想の宣伝の効果的方法であり、宣伝の対象たる思想は思う程には神秘的ではなかったり全く神秘的ではなかったりすることも多い。
近代合理主義と共に生まれた新キリスト教には反神秘主義の宗派が多いのはそのような宣伝効果が興醒めにより失われると信者が離れる虞があるからかと考えられます。現に神秘主義の強めなカトリックキリスト教会は不参加信者が大半ですが新教には不参加信者があまりいません。カトリックも過剰な神秘主義には否定的です。逆に不参加信者の多さが強さだという見方もあります。
神秘主義は必ずしも宗教だけに見受けられる特徴ではなく、思想の維持を主目的とはしない一般社会にもしばしば見受けられます。
その分かり易い例は北朝鮮の体制で、偶に北朝鮮は宗教(のよう)だという批評が見受けられますが神秘主義は宗教の定義でも主目的でもないのでそのような言辞は誤りです。
北朝鮮国家にとり主体思想は国家の維持という主目的のための重要な道具であり、その思想の維持を主目的としてはいないことは明らかです。主体思想を毀損することが犯罪に問われることがあっても主体思想を守らないことや信じないことが犯罪になる訳ではありません。
そもそも自由の国日本も或る思想を毀損したら名誉毀損の罪に問われる場合があるのですし同じことです。単に貧しいか豊かかの違いです。昔は北朝鮮も日本と並ぶ経済大国でした。日本が北朝鮮のようになってしまうかもしれないというならそれは北朝鮮のように貧しくなるということで、体制や自由などは初めから同じようなものです。
安倍政権もまた神秘主義的宣伝手法を取っていたようですし、企業や企業家にも神秘主義的宣伝手法や表現手法が多々見受けられます。宗教はそれで人を集められますが政治は票も、企業は金も集められる。
平成後期からいわゆるブラック企業などの長時間労働が増えていることの主な原因は神秘主義の過剰な重視にあるのではないかと考えられます。
神秘主義的宣伝手法や営業手法は短期に効率的に収益を上げられますが中長期的効率の維持には弱く、宣伝と営業の強化を短期に繰り返さないとなりません。逸り廃りはその分かり易い例ですがあまり逸り廃りに合わせて手を変え品を変えることもできないので宣伝と営業の投下量が決め手になります。
これは私もそういう場合があり難しいのですが、営業員、販売員にあまり話し掛けられたくないという心理や要望が日本人には強くあります。神秘主義的ブラック営業手法はそれに実に合うのです。ぶっちゃけコミュ力要らず、顔だけ覚えられればいい。顔を覚えている営業員からは買いたくなるのです。
その顔というのは容姿や清潔感は無関係です。臭いとかあまり不潔でもいけませんが容姿の良い人や清潔感のある人は嫌いという人も多いので、そういう客には容姿も清潔感もない営業員が好まれるのです。
神秘的に感じさせるためにはなるべくいつも同じ服装をすることです。スティーブジョブスもそうですし、スーツやネクタイは変えないか同じのを何着も持つ。そういえばトランプ大統領もそうですね。
髪型も変えない。道具も変えない。…そこまで来ると逆に有能です。
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