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人間にとって神とは:「親子で」考える神の存在 その2:因果律と神

 少子化問題が近年に政治の一課題になり、岸田政権がその取り組みを顕(あらわ)にしています。
 政治とは政策を行うことが重要な事柄で、政策の善し悪しは勿論大切ですがどうもやはり、先ずは政治とは愛なのではないかという思いを強くしています。
 愛だけあっても政策が駄目過ぎれば宜しくないものの、大体駄目過ぎなければ良い。
 少子化対策など、岸田政権の政策への反対論にはどうも愛がない。政治の愛という側面が理解されていない。
 安倍政権が愛は強くても政策はほぼ鳴かず飛ばずだったことの反動で、とにかく政策の正しさのみが問われるべきだという空気になっている。そんな中支持率が3割に下がっているということは逆に支持している人々が三割いるということで、頭数で見ると首都圏の人口位にいるということです。凡そ三割打てば野球の打者としては優れているということですし、過半数が必須の議席と採決票数は別として支持率というものはその位を標準水準として見るべきではなかろうか。

 尤も、日本は国民の合意、consensusというもののない国で、そういう国の政治に愛を求めることはなかなか難しい。普通の愛国的日本人さえ日本は同じ一つの国民だと思ったことが歴史を通し一度もない。日本国は良くも悪くも国民国家ではなく機構に過ぎない、極東のEUのようなものです。

 支持と不支持にも政策にも原因と結果があります。
 原因と結果の法則を因果律といいます。

 生活、産業経済、政治や自然にだけではなく神もまた因果律において捉えられることが伝統で、原因の原因…の果てにあるものが神だとされます。それがどんなものなのか(存在の在り方)は人や宗教により違いますがその原原因が神だということは凡そどんな人にも理解可能な論理です。いわば点としての神で、それが信仰により線になったり面になったりするという。
 その点は目新しいものではありませんがその点をもう少し深掘りして新しい理解を提示したく思います。

 これはよくある勘違いですが、神には初めも終わりもないというものではありません。
 初も終もなければそれは存在しないということで、無限、限りないということを時間軸に落とし込むことにより神は存在しないという結論が導き出されます。無神論とはそのような無限の意味のすり替えから出たものです。
 時間軸で見るなら、神にも初と終があります。
 キリスト教の聖書の最終巻のヨハネの黙示録には神が「私はΑでありΩである。」と語ると記されますがそれは神自身に初と終がある、中でも初と終であるということで、初も終もないとはいっておらず、Aの前にもΩの後にもないということです。
 故に必然にニーチェのいうように神が死ぬことはあるのです。
 神が全能ならば死ぬこともできるのであり、死ぬことがあり得ないならば全能ではないということになります。
 神は成功することも失敗することもでき(その打率が何割程かは分かりません。)、罪を犯さないことも罪を犯すこともできる。少なくともそれがユダヤ・キリスト教の神についての理解と信仰の基礎、原点です。
 キリスト教の信仰箇条の要約、ニケア・コンスタンチノポリス信経には神は造られずして生まれとありますが、これもまたありがちな勘違いで、他の何者にも造られずに生まれるということは初めがないということではありません。他の何者にも造られないとは自らが自らを造ることにより生まれたということで、その時点が始まり、Αです。
 故に人もまた、そのように神の真似をすれば自分が自分を立たせて造り出すことができます。神と同じではないにせよ似てはいます。そこに神というお手本がないとそれは不可能ではないがなかなか難しいか事実上不可能になる場合がある。故に汎神論のスピノザは神はお手本とはなり得ない人間とは根本的に異質な存在とし、自由意志を否定した訳です。その哲学の究極の帰結がホロコーストです。
 寧ろ、初も終もない、時間軸的に無限な存在とは神ではなく被造物であるかもしれません(そこは何とも断定ができません。)。アインシュタインは宇宙は有限だが果てはなく(無限みたいな感じ)また無(何もない状態)は存在しないとしています。その辺りが人間の認識の極限でしょう。

 神と人間の認識の違いを分かり易く感じ取れるのは原因と結果ではなく結果と原因という捉え方です。
 物事には原因があって結果がある:それはあくまでも人間の認識で、正邪善悪は様々です。それを積み上げ方式のカリキュラムと呼びます。
 神の認識は、物事には結果があって原因がある。
 原因は結果から遡及することにより究明し得る。
 神とはその際の霊気であると、全面的ではないものの最も核心的なるものとして説明ができます。結果から原因を究明する時に、そこに神の霊が宿る。そうではない時は神は単に存在しているだけ(神の偏在)で宿り(恩寵の発現若しくは充満)はしない。
 それを物理現象に敷衍すると、作用が反作用を生むのではなく反作用が作用を生むということで、結果が原因に先立ち存在する。勿論時間軸の上では作用という原因が先刻で存在しますが認識軸においては多くの場合は結果の認識が先にあって原因が分析される。反作用(自己の言動がどんなことをもたらすか)がなければ作用(自己はどう言動すべしか)は実際には認識されない。その緊張感は神の存在、霊と似ている。
 デカルトは実に思惟とはそうあるべきものだとしました。それを逆算方式のカリキュラムと呼びます。

 足を踏み出せば歩けるというのはまさに原因と結果、作用と反作用という積み上げ方式のカリキュラムに拠る歩き方に過ぎません。すると積み上げてゆくのは辛いので歩きたくないという発想になります。しかしデカルトを一部継承しながら批判して転覆したスピノザは人間の思惟とはそうあるべきだとしました。
 江戸時代の人々は田舎も都会も何でも近所で事が済む社会だったので、スピノザのような歩きたくない哲学は問題になりませんでした。歩かないことが普通で参勤交代や飛脚などのように歩けば凄い、スタミナだと感心されるので、現代も日本人のいう多様性や人間性の尊重とはそういうことを意味します。寧ろ、近代化により日本人がよく歩くことが普通になって来るとスピノザ主義的思想の絶対安定多数が崩れて(これはもっと困るのですが、)プラグマティズムが台頭して来た。プラグマティズムとは歩きたくなくても歩かなければならないのだからし方がないという哲学です。尤も歩けば必ずしも健康的とは限らないので、良くない歩き方で日本人を不健康にしています。
 良い歩き方とは足を出すのではなくおなかと背中で歩くことです。おなかと背中に神が宿るということは神という概念のない(初めからないのであるもないもなく無神論とは違う。)仏教者にも、寧ろ仏教者にほど分かり易いものでしょう。

 尤も、神が単に存在するだけではあまり意義がないように、神の霊が宿るだけでもあまり意味がありません。
 神の霊は愛と智慧(光)により意義と意味を持つ。
 愛と智慧は腹の底や背中の嗜みから生まれる。それが結果として足を運ばせ、手を働かせる。道教はそれを気といいます。気とは形のない見えないものにではなく腹や背という形のある見えるものを通し存在する。

阪急電鉄の乗場の行先表示@京都線淡路駅
東急電鉄の乗場の行先表示@東横線自由が丘駅

 原因と結果の積み上げ方式のカリキュラム。
 結果と原因の逆算方式のカリキュラム。

 その違いが実地で一目瞭然なのが電車の駅の乗場の行先表示です。
 言葉(喋られるものと書かれるもの)は人間の認識と思惟を形成し若しくは支配します。

 阪急電鉄などの近畿地方(関西)の鉄道等はJR西日本を除き行先の駅名を終点(結果)から近い方(原因)への順に表示します。
 東急電鉄などの関東地方の鉄道等は行先の駅名を近い方(原因)から終点(結果)への順に表示します。
 関西はデカルト主義(なるべく神の認識。)で関東はスピノザ主義(あくまでも人間の認識。)。
 故に関西の駅と電車には何となく神の存在感がある。
 故か、関西には無神論はみっともないというような風土がある。無神論ではないにせよ神を人間とは異質な超越的存在と捉えるような思想もださくて無理という通念。
 因みに超越という観念は先験という概念の誤解から出たもので、九鬼周造が編み出したもの。ほぼほぼ日本にしかないガラパゴスでださい、迷惑でさえある思想です。近年によくある、おっさんが電車で女性に体液をかけたなどというのはまさに九鬼からすれば粋で称賛さるべき行動です、自己の超越性を示すということで。
 故に日本は東京が中心である限りは決して世界の一員にはなれない、だから大阪が中心だとか京都が中心だとかいう訳ではありませんし、松岡修造もちょっと胡散臭い。
 まあ、日本の中心として最も相応しいのは鎌倉ですが面積と流通能力が狭過ぎるので静岡が妥当かと思うです。

 只、東急は今月に開通する新横浜線など、相互乗入が極限まで勧められたことから行先表示が終点だけになる場合が多く、意図せずに関東式の「→終点」の表示ではなくなるという現象が生じている。そこで関東人の認識と思惟のあり方が関西的に変わるのか、即ち野蛮を脱して文明的になるのかどうかが2020年代の哲学の重要な命題になり得るかと思われます。
 逆に若し関東が関西的に変貌したら関西はその大都市圏としての存在意義を失わないのかどうか。
 その点で、大阪日本維新の会というのは関東とは異質なものとしての関西という或る種の特権と幻影を固守して事実上は関東的なるものの支配を温存助長し、日本の文明化を妨げているといえるかと思われる。

 折衷案としてはこんな感じ:

 ❶横浜方面
  自由が丘;横浜;みなとみらい;元町・中華街/新横浜 - 相鉄線

 ❹東京方面
  渋谷 - 副都心線;東武線;西武線/目黒 - 南北線;埼玉高速線;三田線

 終点だけを先に大きく表示して残りは関東式に「→終点」の順に示す。
 意外と関西が「それいい!観光客が喜ぶ。」とばかりにそうして関東はそっくり関西式になることもあり得る。
 /の部分は改行でも良い。というかその場合は字数からして改行ですね。
 あとまあ、有料座席指定は田舎臭いしおっさん臭いのでやめてほしいです。タダならし方がないとも思えますが、お金を払ってまで野蛮人やおっさんの掛けた座席を取りたいと思うのが信じられない感覚です。

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