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女性差別⊆差別⊇とんねるず?――それは真に差別なのかという問題:その2

 TBSテレビの『ザ ベストテン』が終わる時に、司会の黒柳徹子さんがその番組は使命を終えたと語りました。
 視聴率が低いので終わるのではなく使命を終えたので終えることにする、本当かどうかは分かりませんが多分本当でしょう。

 一時期にその『ザ ベストテン』の裏番組だったフジテレビの『とんねるずのみなさんのおかげです』に、まさにその最終日に「裏番終了!」と黒板に書いて大喜びする場面がありました。
 ギャグなので真意は違うのでしょうが、その場面は一見すると視聴率などを競う存在が何らかの理由でそれまでしていたことをやめることを喜ぶ、即ち敵がなくなることを良しとするということで、社会における蹴落としや人の不幸を快しとすることを助長するかのように見て取る人がいるかもしれません。

 そんなことを考えていたら凡そお笑いは成り立たないもので、その例にも一端を見るようなとんねるずのようなお笑いが少なくなってもっと「人を傷つけない」お笑いが増えるようになったらお笑いが貧しくなり、テレビもあまり相手にされなくなるようになって来ています。

 別に蹴落とされたり不幸で終わったのではなく、使命を終えたから終わったので、とんねるずも同じです。
 まさにその後継の番組である『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終わったのも、とんねるずがお笑いにおける使命を終えたから。
 尤も、『した』にはまさに十年一日、二十年一日の如く何も変わらないことを永らく続けるような感じがあり、殊にとんねるずの時代をよく知る世代の人々がそれに飽きていた、それに代わる新しいものが出て来ないことを懸念しているという事情もあるでしょう。少なくとも私はそう感じていました。とんねるずの時代を知らない今の中高生が見たら『食わず嫌い王決定戦』の料理の材料のように新鮮で面白いと思っていたかもしれません。

 『した』の最終回にも出た保毛田保毛男にしても、とんねるずのギャグが差別を助長するものではなく、逆に差別や邪心を制することを明確にしているかどうかはさておき、目的とするものなことは虚心に見ておれば明らか。それを非難する方々はとんねるずにしても何にしても、物事を虚心に見ることや直前の記事に語ったような問題の切り分けをしない。彼らこそが身内の内輪受けという色眼鏡を通してしか物事を見ずに小島慶子にいいね♡をしたりしている。

 とんねるずは差別や邪心を制するという使命を果たした。少なくともそのような意識が必要だと認識させる処までは果たしている。
 それはA⊇Bという差別やいじめの構造においてAがBを制裁するという形によってでしかないにせよ、少なくともBによる差別やいじめや差別をなくすことを実現している。

 とんねるず語を遣う人は大なり小なりそのAの権威を利用したいと思うのでそうする。とんねるず語のlight userだった私はAの権威を小なり利用しようとしていた訳です。

 しかし、その使命が果たされても、それに代わる新しいものが出て来ない。
 それはあくまで別の問題でして…。

 「-系の」や「-みたいな」などのとんねるず語の鉄板になっている語彙はどこか集合や相似などの数学的概念を想わせますし、もはやとんねるず語だと認識されてもいない程に頻用されている「ツーショット」は映し出された場面を二つの点、即ち線に還元するような感じがあります。
 もしや、『一気!』などのとんねるずの歌の数々の作詞者でもある秋元康さんなどが数学に強くてそういう理詰めで芸能の売り方が考えられているのでしょうか?会員番号を付けたり秋葉と博多、瀬戸内の出向者、後に兼任者がいたりとか、どうもそんな気がします。

 その鍵は「含む/含まれる」という集合の概念。

 とんねるずの翌年1981年(昭和56年)に見参したBOØWYはその名称の表記に空集合――:含まれる要素の何もない集合――を示す「∅」の記号を用い、中心が空であることを表現していると見られます。その行状、performanceを見ると全くそのような感じがします。

 もっと簡単な形では、私がかつて好きだったZARDを含む'90年代に隆盛をみた「ビーイング」もその「系」に含まれるという想念が意図していたか否かはさておき、人気につながっています。

 ZARDの私のあまり好きではない歌に「全てを手に入れることが愛ならばもう失うものなんて…何も怖くない。」というのがあります。
 それなんかは真部分集合――:母集合と子集合が全て一致すると、それを母集合には含まないとする定理。――を想わせる。

 そして、差別の問題を解く鍵も集合と真部分集合にあると思います。

 身も蓋もない結論からいうと、全てを差別するならば差別は存在しない。

 しかし人が全てを手に入れることができないのと相似し、全てを差別することはなかなか難しい。
 大抵の人は何かを優先して他の何かを劣後するので、差別の連鎖を解放されることができません。
 全てを差別するとは分かり易くいうと、自分以外の全てのものは自分より劣るみたいな。そう思える人は差別をしないのです。

 そうであるならば、差別心をそのままにしてもとにかく差別的言動をしないことという現代社会に大なり小なり広く理解されている通念は必要といえます。
 「いや、心こそが重要なのだ。差別心を抜本的に摘み取らなくてはならない。」といっていては『食わず嫌い王決定戦』の十年一日、二十年一日を悠に凌ぎ、万年一日、二万年一日でしょう。

 では、とにかく差別的言動をしないだけで世の中が良くなっているか?――いません。世の中が良くなるかどうかは別の問題だからです。差別的言動がないことは世の中の、少なくとも平和といえる世の中の必要条件であり、世の中が良くなることは世の中の十分条件です。必要条件を満たしつつ、そこからそれとは別にどうするか。

 差別的言動がないとは、保毛田保毛男が出ては来ないということではありません。ホモは少しも悪いと思っていないのに――多分。――ホモぽいノンケが騒いでいるだけ。

 その「ホモではないがホモぽい」というのは差別を考える重要なミソだと思うので、それを次の記事に語ります――引張ってます。ヒッパレ。――。

#とんねるず #差別 #女性差別   

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