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本の中に仲間を見つけられる幸運

『僕という容れ物』檀 廬影(だん・いえかげ)、立東舎 2019年

SIMI LABのDyyPRIDEが本を出した。
否、ここでは彼はもうDyyPRIDEではなく、檀 廬影という純文学作家だ。

これは大事件であった。
なぜならSIMI LABの一員としてDyyPRIDEが現れた時から、私は彼の大ファンだったからだ。

本の帯には菊地成孔さんや浅野忠信さんの言葉が光っている。4年前、YouTubeにあがっているDyyPRIDEと菊地成孔さんとのインタビューで"示唆"されていた「文学者 檀 廬影」が本当に生まれたんだな、という感慨で胸がいっぱいになる。

ラップの歌詞でさえ、DyyPRIDEの文章には純文学的香りが漂っていたから、彼の小説がエンタメ小説というよりは純文学寄りになるであろうことは容易に想像できたし、『僕という容れ物』というタイトルと表紙のコラージュ作品を見ればそれが檀自身が経験しているであろう"日本において黒人として育つことについて"についての話であることがわかった。

一般的に言って、肌が黒い子供として、青年として、大人として日本で生きていくのはたやすいことではない。僕自身、褐色の肌を持った子供として育ったから様々な出来事に遭遇した。(「褐色」なので、「黒」よりはましだったのだろうと思う――僕の肌色をみて、出身は九州?沖縄?と勝手に推測してくれる人に関してわざわざその誤解を解こうとしなかったことも、僕の場合は多々あったからだ――日本人だと思ってもらえたら、不当な扱いをされる可能性も減る)

『僕という容れ物』には全編を通して暴力と薬物が溢れている。(バイオレンスとドラッグ、と書きそうになったが「なんか違う」と思ったので漢字にした。主人公が住んでいるのは日本だから)非常に厳しい環境のなかで主人公は生きている。それはもちろん、主人公の中に巣食う破壊衝動のせいでもあるだろうが、自分の本来の適正とは異なった場所で働き始めたことも大きな要因だろう。残念ながら現実に、この小説と同じようなルートをたどる子どもたち、つまり中学生で自我に悩み、高校で先生や同級生に苛められ、高卒ですぐに就職する外国人の子どもは特に珍しいケースではない。これから日本が国際化して行くにあたって、逃れられない社会問題である。

さて、
主人公は自分の事を「僕」と呼ぶが、同時に彼の頭の中には「私」や「オレ」がいるため、彼はその分裂に苦しんでいる。おそらくそんな彼を形作ったのはその環境によるものが大きいと思うが、その彼をめぐる環境がどのような物であったのかについては、電車の中で彼のアフロが目立ってしまうという象徴的なシーンに描写がある。

p.8
「大きなアフロにブレザー姿で電車に乗ると一際目を引いた。車中は静まり返り、人間の瞼と眼球がジトリと摩擦する音がハッキリと聞こえてくるようで恐ろしかった。」

p.83
「高校時代、電車で学校に通っていた時分、アフロヘアでブレザーの制服を着て電車に乗ると、大勢が僕をみた…(中略)…すると目が合う瞬間にあたかも最初から僕の頭上にある広告をみていたかのような…顔をして相手は目を逸らす…。或いは目が合った後も、害虫でも見るような目で僕を睨み続け、自らの正当性を信じて疑わない自信と憎しみに満ち満ちた表情を浮かべる人間もいた。」

特に2つ目の引用はだけであれば、被差別者の苦しみを語るだけの小説で終わってしまいそうなものだが、これに続く1文に檀のユーモアと思慮深さがつまっているように僕は思う:

p.83
「こういう経験から、世間じゃ忌み嫌われている害虫に対してもシンパシーを覚え、以来殺すのをやめた。」

なんと繊細な神経であろうか!
私には害虫(私の想像ではたぶん、ムカデとか蜘蛛とか)にそこまで丁寧に向き合える気がしない。

----(以下、ネタバレを含みます)----

物語の中盤から、主人公は薬物による幻覚のなかで彼より数十年前、昭和46年の日本を生きた「ギン」という人物を見る。ギンもまた、日本で育つ黒人という被差別者である。そして主人公の「僕」と同じような生きづらさと破壊衝動を抱えている。

「僕」はここに至って、自分と同じような存在を発見し、また自分を客観的に見る事ができるようになる。自分と同じように苦しんでいる人を発見することは、時に人を救う。また、その相手から学んでよりよく生きようとすることもできる。

この小説もまた、マイノリティたち、特に私のような濃い色の肌を持つ子どもたちや、かつてそのような経験をした今の大人たちにとって救いとなるのではないだろうか。かつて思春期の終わりに僕はラテンアメリカ文学や、アメリカのマイノリティ文学をむさぶるように読んだ時期があった。この広い世界のどこかに、僕と同じような経験をした人がいるんじゃないかと思って、本の中に彼らを探したのだ。僕にとって結局彼らを見つけたのは翻訳されたアメリカのマイノリティ文学の中だったけれども、檀の小説は日本語のまま読める。これはとても素敵なことだと思う。これからの思春期を通過する日本語育ちの若者たちに勧めてあげられる一冊。

上のほうに貼り付けたYouTubeで檀(DyyPRIDE)が、自身がインドに行った理由について、「(インド哲学・宗教をもっと勉強することで)世界平和のむけていい影響を及ぼすような事がしたかった」と言っているが、その留学経験も生かされた『僕という容れ物』はきっと文学というフィールドで世界平和にむけたいい影響を及ぼしていると思う。

ところで、ギンもまた、「僕」と同じように自分のアフロを気にしているのだが、彼のおしとやかな性格が伺えて面白い。
以下の引用はギンが映画館に行く時のシーンである。

p.155
「席に着くと、ちょっとした問題に気が付いた。意外にも客が入っておりギンの前に座っている人の頭が少し視界に入るのだ。という事はギンのアフロヘアは後ろに座る人の邪魔になるという事だ。ギンは参ったな、と思い座席ギリギリまで深く座り身を屈めた。すると画面の下部に前の座席に座る人の頭部が入るか入らないかの際どい視点になった。一応なんとかなりそうだ。」

ギリギリまで浅く座ろうとして変な態勢になっているギンを見て、隣のガールフレンドは微笑んだそうだ。

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