見出し画像

タイのお寺でヴィパッサナー瞑想に参加してきた話

自分がこれまで行ってきた瞑想は果たして意味があるのか?

画像1

瞑想を日々行うようになってから久しいが、この5年ほど「果たしてこのやり方はあっているのか?効果はあるのか?朝の貴重な時間をさいて行う意味はあるのか?」という疑問を抱いてきた。

かつて、日本のお寺で開催されている週末座禅やスマホの瞑想アプリなどを活用して、練習を試みたがどうもいまいちしっくりこない。

そんな中、大乗仏教の本場であるタイに滞在していた時に、外国人向けの本格的な瞑想プログラムを提供している寺があるという噂を聞いた筆者は早速調べたみた。

最低10日間のヴィパッサナー瞑想プログラム

画像2

見つけたのは、チェンマイにあるお寺、ワット・ラムプーンのヴィパッサナー瞑想のプログラム

最低10日間、最高26日間滞在可能で、英語の話せる僧侶がヴィパッサナー瞑想を教えてくれるとのこと。

参加者各自に個室が割り当てられて、毎日2回の食事が提供される。

筆者は、タイの滞在日数上限の関係でどうしても6日間しか参加できないため交渉をしたのだが、なんとか受理してもらえた。

ちなみに費用は、初日と最終日の儀式(セレモニー)の費用300タイバーツ(約1200円)を支払う必要があり、それ以外は任意の寄付制。

電子機器は全て没収。書くことも読むことも厳禁

画像3

到着すると受付にて、携帯電話をはじめとした電子機器を全て預ける

また、プログラム中は、本などを読むことも文字を書くことも禁止される。

当然のことながら、個室の中にはテレビなどない。

寺の敷地の外へ出ることもだめ。

参加者間同士の会話も極力控えるように促される。

滞在中の衣類は、上下白の衣類(長ズボン)そして白の下着以外は不可。

つまり、プログラム参加中は、外部からの刺激を遮断して徹底的に自分の内面に向き合うことを求められる

ヴィパッサナー瞑想とは?

画像4

まず、このお寺のプログラムでは「瞑想によってメンタルの向上を図る」ことをゴールとする。

そして、その瞑想の方法には大きく分けて「サマタ(Samath)瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つがあり、前者は、集中力を高め心を落ち着かせることを主眼とし、後者は、マインドフルネスの訓練を通して自己理解を高めることを目的とする

このプログラムでは、そのヴィパッサナー瞑想=洞察瞑想(Insight Meditation)を学ぶ。

ちなみに、欧米発で世界中のホワイトカラーを魅了している「マインドフルネス瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」は、言葉の出自が違うだけでほぼ同義。

ともに、「今、この瞬間に意図的に意識を向けて、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観察し、常に今現在の内外の状況(身体・感覚・思考・思考の対象物)に気づいた状態でいる」ことを目指す瞑想法で共通する。

具体的なヴィパッサナー瞑想のやり方

画像5

このお寺で学ぶことのできるヴィパッサナー瞑想は、2つのステップから構成されている。

まずは、「歩く瞑想」。

これは、その名の通り歩きながら行う瞑想であり、足の上げ下げ、そして足裏が地面に触れる感覚に全ての意識を向ける

そして、我々が瞑想といういう言葉を思い浮かべるときに真っ先に思い浮かぶ瞑想方法である「座る瞑想」。

座る瞑想では、呼吸によって生じる腹部の上下の運動及び「座っている」という感覚に意識を向ける

これらを1セットとして行っていく。

いずれの瞑想を行っている際には、様々な感情や思考、過去の出来事や未来への不安などといったものが、頭の中に浮かび上がってくるが、それらの良し悪しを判断せずに、ありのままに「観察」することがヴィパッサナー瞑想のポイントとなる。

すると、その思考はやがて消え去り、意識は足や呼吸に戻る(戻す)

瞑想の実践者は、今この瞬間に心身ともに何をしているのかを意識する必要があり、過去や未来ではなく、現在にのみ思いを馳せる

瞑想の実践には、今この瞬間が非常に重要となる。

瞑想を極めるとすべての苦しみや悲しみを終わらせることができる?

画像6

ヴィパッサナー瞑想の最終的なゴールは「無常」、「苦悩」、「無我」の性質を完全に理解することであり、それによってこの世のすべてがはかないものであり、苦しみにさらされ、コントロールできないことを悟る

こうして心は、獲得すること、持つこと、存在することへの欲望を捨て去る

そして、すべての悲しみと嘆きを浄化し、すべての苦しみと悲しみを終わらせ、涅槃(ニルバーナ)に到達するとお釈迦様は説いている。

プログラム中の1日の過ごし方

画像9

4:00AM 寺に鐘の音が鳴り響き、起床

4:20AM 受講者と先生がお堂に集まり、朝の念仏の合唱を行う。その後、朝食までの時間各自瞑想の練習を続ける

6:00 2度目の鐘の音とともに、受講者・僧侶・その他関係者が食堂に集合して朝食をとる。まず、食前の念仏を唱えて、僧侶→世俗の人間(受講者その他)の順に食事をとる。朝食後は、再び、昼食までの時間、瞑想の修行を進める

10:30 昼食にして、1日の最後の食事(一応その後も食べ物を摂取することはできる)。基本的に昼食と同じように念仏を唱えて、食事を取る。昼食後は、また瞑想の時間

画像8

15:00 老師に、瞑想練習の進捗を報告する。質問や疑問などを老師にぶつけて、それらを解決する。また、翌日まで宿題が渡される(何時間瞑想をするか、新しいテクニックの適用など)。その後は、就寝の時間までひたすら瞑想

17:00 15:00以降は、「噛む」ことが禁じられるため固形物を摂取することができないが、お腹が減った受講者のために、飲料(豆乳、ココアなど)が用意される。瞑想に疲れた受講生にとって癒しの時間

画像14

17:30 夕方の念仏の合唱の時間。主に僧侶及び、タイ人の受講生向けのため、英語の念仏本が用意されておらず、外国人には参加のハードルが高い(参加は義務ではない)

22:00 就寝の時間。必ずしもこの時間以降に寝る必要はない。筆者は、その日の瞑想時間のノルマを終えて大体21時くらいには寝床に入っていた

1〜2日目 思考が止まらない

画像10

まずは、「歩く瞑想」を15分、「座る瞑想」を15分の計30分を1セットとして、一日6時間瞑想することを宿題として課せられた。

はじめが肝心とばかりに気張って瞑想に取り組むが、そもそもこの時点で「気張る→何か得ることを期待して頑張る」という煩悩が浮かんでしまっている。

そして、過去の思い出や今後の心配事など、様々な思考がとめどなく溢れきて、全く、「今この瞬間」に集中できない

3〜4日目 眠気や足の痛みが止まらない

画像11

老師からのアドバイスにより、「思考が浮かんでも、ただそれをありのままに「観察」するだけで「良し悪し」を判断するな」というアドバイスをいただく。

そして、過去の思い出や未来の考え事などが一通り出尽くしたこともあり、徐々に、足の上げ下げや呼吸といった「今この瞬間」に集中できるようになっていく。

一方で、「歩く瞑想」を30分、「座る瞑想」を30分の計60分のセットを8回、つまり1日8時間というように毎日瞑想の宿題のハードルは上がっていく。

すると、今度は瞑想中に睡魔が襲ってきたり、足が痛くなってくる

ちなみに、日本人としては、寺の料理=精進料理というイメージがあり、簡素な食事を想像するかもしれないが、こちらのお寺で提供されるのはタイの一般的な家庭料理であり、普通に美味しいし、なんならデザートまでついてくる。

美味しいので食べすぎる、すると血糖値が上がり、眠くなる。自業自得である。

老師より「眠くなったら水を飲め」というアドバイスを頂き、睡魔と格闘してなんとか宿題の瞑想時間を消化する。

5~6日目 長い。早くタイマー鳴ってくれ

画像12

最終日が近づくと、宿題の瞑想時間は9時間、10時間というように前人未到の域に達してくる。

ちなみに、プログラム参加者は初日にタイマーを渡されて、瞑想時間をそれで計測している(携帯を没収されるため)。

設定した瞑想時間を消化して、タイマーの鳴り響く音を聞くことは、この6日間のプログラムの中でも至高の瞬間であった訳だが、一回の瞑想が40分というように長くなっていくと、当然のことながら中々タイマーが鳴ってくれない。

感覚的に25分程度を経過する頃になると、タイマーが鳴るのはまだか?まだか?という雑念がとめどなく溢れ出る

これを老師に相談すると、老師は「心の中で今やっている動作を言葉に出して唱え続けろ」とおっしゃる。つまり、「歩く瞑想」であれば、「足をあげている、あげている。下げている、下げている」。「座る瞑想」ならば、「座っている、座っている。(横隔膜が)上がっている、上がっている。下がっている、下がっている。と言った具合だ。

早速、試して見ると、依然「タイマーまだ?」という心の声は生じるものの、いくらか軽減されて、1日10時間の瞑想を消化することができた。

プログラム終了後、現実世界に戻って見ると・・

画像13

俗世間から遮断された6日間の瞑想プログラムを終えて、寺の外に出て見てまず感じたことは、強烈な「刺激」の多さ

そこかしこに、過剰な「人」「乗り物」「お店」「看板」「音(騒音)」・・・。

そして、6日ぶりに開いたスマホの上でも、同じように処理しきれない「テキスト」「写真」「動画」などなどが溢れてくる。

情報化社会と呼ばれるようになって久しいが、これほどまでに過剰な「情報≒刺激」が溢れている世の中で正気を保つ方が難しいと改めて認識する。

早速、スマホからYouTubeのアプリを消して、ブックマークしていたウェブサイトの数を減らし、複数登録していたニュースレターの数を減らして、情報のダイエットを敢行。

そして、1日最低でも1時間は瞑想を続けることを決意し、定期的に今回のような瞑想プログラムに参加することで「デトックス(またはデフラグ)」を行うことを心に誓う。

6日間で40時間の瞑想を終えて涅槃に辿り着けたか?

画像14

当然のことながら無理である。

瞑想をしている最中にも無数の思考が湧いてくるし、煩悩が湧き出てくる。

しかし、少なくとも20分程度の瞑想は苦では無くなった。

以前は、10分の瞑想すらも集中するのが苦痛だった身からすれば大きな進歩だ。

そして、近年、興味が湧いて色々本を読んで勉強してきた仏教の考え方が、「身体知」としてより深く理解できた(気がする)。

頭の中にぽっと浮かぶかつての失敗の苦い思い出も、それをありのままに「観察」する(=今、自分はあの思い出を思い返していると客観視するだけに留めて良い悪いの判断をしない)」ことで、その後ふっとどこかに消えてしまう

つまり、世の中に永遠に続くものは何もないという「無常観」である。

この、「世界に常なるものは一つもなく、全部が流れている無常であるということ」を認識し、その中で何にも執着しないという精神を保つことができれば、世の中の苦しみを大分なくすことができるというのが、仏教の肝だ。

人生に疲れた人や何か思い悩んでいる人には、下手な自己啓発セミナーに数十万円も払うよりも、タイへの格安航空券を購入して、この瞑想プログラムに参加することをおすすめしたい。


そんな筆者の日常はこちら(YouTubeチャンネル)になりますので、よかったら御覧ください。

Vagabundo film

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?