見出し画像

母性ってなんだ。

湊かなえさんの母性をみた。

僕らは、この世界で生きている上で意識的にも無意識的にも様々な役割を担って生きているように思う。

父親、母親、息子、娘、兄、姉、妹、弟、上司、社長、先生などあげたらキリがないくらい僕たちの日常には役割で溢れている。

そういった役割には、少なくともステレオタイプが存在しているわけだけども、一体その「観」はいつ自分の頭で考えて練り上げたものなのだろうか?

湊かなえさんの母性では、
自分は愛されて育ったにも関わらず、娘を愛せない母と愛情を求め続ける娘の親子の物語が中心に進んでいく。

母性とは一体なんなのだろうか?

そもそも先天的に、本能的に、"それ"はみんなが一様に備わっているものなのだろうか?

生きていく中で刷り込まれていく or 沸々とした栄養源のように浴びたその情報や経験は、真なる実のような甘いものなのだろうか?


例えば、僕は母と父と今実家で暮らしている。

僕の母親が、母親である、という事実をこれまで疑いもしてこなかった。

僕はこれまで「お母さん」であったり、「母」と呼んでいる訳だ。母もそれに対して別に嫌な気持ちをしていないと先程言われた。ただ、母が母である前に、1人の名を持つ人間であるということを一体僕はいつ真剣に考えたであろうか。

また僕の父は、現在血の繋がっていない父だ。血の繋がっている父は遠い昔に、別々に暮らしいて10年以上会っていない。

父の繋がっていない父は、僕はその人を今でも名前で呼んでいる。直接「お父さん」と呼んだことは一度もないのだ。

それを振り返ると、以前はその人を父として認めないという僕のアンチテーゼだった。

そこには、「父親とは、もっと子どもと寄り添い、僕の意見を尊重するべきだ。もっと僕自身のことを認めるべきだ」という前提が僕にはあったように思う。

言い換えるなら、「あなたにもっと自分を知って欲しい、あなたにもっと承認されたい」といった言葉だ。ただ、自分の想いとは相反する現実を前に、僕は目を背けるといったようなことをしていたように思うのだが。

話を戻すと、私の母は家で母と呼ばれる。
外では、さとるママとかさとるのお母さんと呼ばれる。そして苗字で呼ばれる会社では、旧姓ではなく変わった苗字だ。

そうして社会で生きる上で、自分の個が失われるようになっていくこともあるのではないのか?

良い悪いではないのだけど、
少なくとも僕の頭の中では、

「なぜ母親や父親などといった役割を人類はさも当たり前のように言葉で定義してきたが、それらの社会的役割はどのように変化してきたのか?また、その役割はその時代になぜ必要であったのか?」という問い。

また、

「多様な父性や母性などは後天的な影響で付与されたものとすると、違う環境下で育った人が持つ(像)父性や母性にどんな偏りがあるのか?」

「多様な個を認め合える社会を受容れるとして、それは実際どのようにして成り立つのか?最小単位の1on1から家族、会社などの組織からムラ単位で、それらは如何にして実現可能なのか?」

という散らばった問いがあちこちで自分の宙を訝しげに浮遊している。

少なくとも僕は、システムの中で考えなくても「正しい」と大多数が思っているから正しいというのは本質的ではないように思います。

時間はかかりますが、個々それぞれが内的な変容の中で正しさを考える(べき)ことが大切だと思います。

ですが、私にはまだ分からないことばかりです。だから知りたいのです。

「みんなそれぞれだよね」と考えることを止めるべきではないと自分に囁く声がするのです。分からないから、小さい脳みそを使って、考えてみようと思いました。

私には今がそのタイミングであったということです。大学は本来考え、そこから生まれた問いを深めるのにはもってこいの場所だったのでしょう。

大学に在学してるからではなく、今なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?