見出し画像

友人のnoteを読んでみた。彼女の願いや姿勢に、僕は胸を締めつけられた #16

僕のnote を読んでくれて、それに対して反応をくれることがとても嬉しい。
彼女はLINEでわざわざ僕に連絡をしてくれた。

さとるのnote、いいね!

言葉が真っ直ぐで、
それがすごくすてきだなぁって思った!

彼女とは、もう一人の友人と3人で以前沖縄へ行った。僕らの関係は、ある時期に東京の不思議なシェアハウスで共同生活を送っていた。後で、シェアハウスのこと、沖縄のことをもう一度再考したいと思った。

そんなこんなで僕は、彼女のnoteを久しぶりに読んでみた。

僕らは「壁」を築き、「線」を引いているのかもしれない。

あなたの切実さ、正直さに心を打たれました。

この社会というのは、なんなのでしょうか。
僕らのいう社会とは、どこを指し示しているのでしょうか。

ある立場になれば理不尽ともいえる、不公平ともいえる社会、ある立場に立てば現状を維持できて、過ごしやすいともいえる社会なのかもしれません。

僕らは、少なくとも僕は匿名なシステムでの中で、知らず知らずに、生きてる。

そういう匿名の突き動かしている「何か」って、複雑で、すぐにはわからなくて、時間がかかる。
だから、学んだり、考えたり、見てみないと、実際には想像ができなかったり、他人事で終わったりしてしまう。

これは、人間が無意識のうちに築いている、いや線を引いている、ある種の「壁」やら「境界線」のようなものに思う。
そう、僕らは面倒臭い、怖い、気持ちが悪い、考えたくないなどの異質なものを見えないようにする。それを僕は「壁」と呼ぶ。あるいは、「境界線」といってもいいのかもしれない。だって、そうしないと「自分」を守ることができないと思っているのだから。

「壁」や「境界線」を無くす、それは「自分」と「あなた」が同じであるという感覚を取り戻す行為なのかもしれない

ですが池ちゃんのように、きっと境界線が曖昧で自分事として捉える、捉えてしまう人はきっと優しい人なんだと思います。
池ちゃんは、学び、動き、そういった体験の積み重ねの中で、見えない「壁」を取り除こうとしているのだから、と思ったのです。

「壁」や「境界線」がなくなると、どうなっていくのだろうか。

僕は思った。
その対象と共感覚になっていくのではないのだろうか

喜んだり、悲しかったり、痛かったりするのではないのだろうか。

「境界線」や「壁」がなくなると、たとえ紙面上であっても、ネット上であっても、直接であっても、あなたは喜ばしいことには喜ぶし、悲しいことには涙を流すし、憤りを感じることは同じように怒ったのではないのだろうか。

きっと池ちゃんと「それら」はひとつになっていたのではないのかと思ったのです。

ジャーナリストは、僕らの「壁」を取り払おうとしているのではないか

何も勉強せずに感性だけでこの言葉を書いていることを許してください。僕はジャーナリズムについて未だ学んだことはありません。津田さんらのジャーナリストについて僕はこれから本を読んでみたいです。後で教えてください、もしくは貸してください。

話を戻すと、ジャーナリストの方々は自分で見たこと、聞いたこと、感じたことを伝えることを通じて、僕たちの「壁」を取り払おうとしているのではないかと、思いました。

おそらく、ジャーナリストと呼ばれる方々やそれを目指している・いた人たちは、きっと対象としている「それら」と境界がなくなっていったのではないでしょうか。

池ちゃんに肩書きを求めることは少なくとも僕はありません。池ちゃんが境界をなくして、壁をなくして、同じかはわからないけどあたかも自分ごとのように痛んでいる姿を想像して、なんだか僕は心を締め付けられました。

そして、自分はつまらない、のようなことをnoteに書いていましたが、それは僕にはわかりません。

ただ僕がわかっている、あるいはそう思っていることは、池ちゃんはとても優しい人だということです。きっと寄り添って、少しでも「あなた」のみている景色を感じれるように努力してきたのでしょう。僕はその根は、愛のような、抽象的でわかりませんが、そういった類のものだと思います。

なんでこの文章を書いているのか、僕は書きたくなってしまった。そんな風に思ってしまったので書いてしまいました。

また会いましょう。会える日を楽しみにしてます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?