「人それぞれ」や「多様性」。価値相対主義について思うこと

 日本の合計特殊出生率は2020年度で1.3人。急速に進む少子化を解決するには、未婚化や晩婚化を防ぐことが必要だ。

 しかし、最近は結婚に関して「メリットがない」「強制されてするものじゃない」など否定的な声が多い。
 親戚同士で集まった際に未婚者に結婚の話題を振ることさえタブー視されてきている。

 私も大学生の身分であり未婚である。私も結構最近まで「結婚なんて個人の自由じゃね?する必要ある?」と考えていた。

 結婚に関しては「しない自由」の他にも事実婚を継続したり、同性婚や選択的夫婦別姓の導入の議論があったり、色々と複雑多様化してきている。

 このような結婚に関する価値観の多様化をはじめとして、現代は価値観のインフレが起きている気がする。そして、多様化した価値観を「人それぞれだよね」と解釈し、その価値観の真理に踏み込まないことが増えている。一度誰かの価値観に踏み込めば、それは価値観の押し付けることになる。

 例えば結婚に関しては、結婚を選ばないという価値観に対して、「社会を維持するために結婚しなさい」という規範をぶつけたとすると、「そんなのおせっかいだ。人それぞれだろ」と反論される。

 いわば現代は価値の多様化を背景とした価値相対主義の時代である。
 (私自身価値相対主義にとらわれない絶対的な真理を探究する「哲学」の営みが好きなのだが、ここでは触れないでおこう)

 私が価値相対主義の時代に思うことは、人の価値観に踏み込むことがタブー視されることの危険性である。
 価値相対主義においては、人それぞれの価値観が尊重され、その意味でその価値観は絶対不可侵である。結婚の例のように「結婚しなさい」という規範を押し付ける行為は価値相対主義的な非常にウザい行為なのである。

 そのような価値相対主義の時代においては、他者の価値観に触れ自己の価値観を他者に訴えたり、反対に他者の価値観に論破されたりするような現象が生まれないのではないだろうか。

 人は「対話」を通して自身の価値観を成長させていく。 
 価値相対主義の時代に、他者の価値観に踏み込めないとすれば、我々は「対話」を通じて、自身の価値観を育むことができなくなる。
 他者の価値観に踏み込むことができず「対話」を経ることがない価値観は果たして成熟した価値観と言えるのだろうか。そしてそのような価値観で溢れた社会は果たして正常な社会なのだろうか。


 

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