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【255日目】英雄にっぽん

ご隠居からのメール:【英雄にっぽん】

戦争体験者である必殺仕事人作家池波正太郎の『英雄にっぽん』を読む。戦前の昭和十二年から数年間用いられたという「小学国語読本」尋常科用巻九の第十六に「三日月の影」という一章があり、鹿之助が山の端にかかる月を仰いで、「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈る姿が描かれているという。

池波正太郎も子どものころは、そんな鹿之助のイメージを抱いていたはずだが、戦争体験を経て、昭和四十五年一月から『英雄にっぽん』の連載をはじめた頃には、冷めた眼で鹿之助を描いており、「けれども、これから私が書こうとする彼の人生は、むかしの教科書にようにはまいたぬだろう」と述べている。

実戦においては、尼子氏の敗因の一つとして、戦力の逐次投入を指摘する。戦力を小出しにして、様子見に専念し、大規模戦闘を避けようとするという消極作戦だ。尼子・毛利戦争では岩見銀山を制する者が勝ちといわれていたが、尼子方の山吹城主・本城常光が救援を求めたとき、尼子の対応が遅れ、戦場に駆けつける前に、本城常光は投降してしまった。

岩見銀山の次は宍道湖北岸の白鹿城で、城主は松田誠保だったが、やはり、戦力の逐次投入で、対応が後手になり、白鹿城も他の城も落城して、月山富田城が孤立してしまった。

作者は言及していないが、ノモンハンやガダルカナルの戦力逐次投入による敗北パターンを念頭においていたと思う。新兵器の導入、戦場への物資補給、そして諜報謀略の点で、日本軍がアメリカ軍に劣っていたように、尼子は毛利に劣っていた。鹿之助のように戦場で豪勇ぶりを発揮しても、それだけでは戦は勝てないのだ。

最終的に尼子再興軍を破った毛利は、三万人の大軍を集めて、上月城を一気に攻めた。戦略的な成功だが、それに対して織田信長は尼子を見捨て、別所氏のたてこもる播磨の三木城攻略に戦力を集中させる戦略を選んだ。

このような場合、指揮者には大局観がもとめられる。


返信:【Re_英雄にっぽん】

昨日は、朝早くから夜中までゴルフ及び飲み会に参加していたので、メールを書くことができなかったよ。

山中鹿之助の忠義の思想は、世界大戦中、大いに利用されたのだろうね。日本の精神至上主義は、本当にすごいものだった。日本国民全員に、現人神である天皇のために命を賭せという思想は、ある意味、マインドコントロールされているが、それが、日本の文化伝統の根幹にあった。

そのような意気込みは、末恐ろしいが、武器や兵糧までも、精神で補おうと考えたのが、当時の日本人の愚かなところ。また、そのような行動を称賛していたし、誤りや負けを認めなかった。

あるいみ、尼子氏の戦が、敗戦国である日本の未来そのものの行動だったのかもしれないね。武器や兵糧がなければ、精神だけでは乗り越えられないよ。それでも、立ちはだかる壁を乗り越えるのは、たしかに、精神力、胆力が必要だ。

現代を生きる我々は、武力で人を治めるような状況をつくらないための知恵や精神を鍛え、徳を積まなければならない。人類が存在する限り戦争は亡くならないかもしれないが、ファミリーヒストリーは続いてほしものだ。

話は変わるが、noteで「創作大賞」を募集しているので挑戦してみようとおもう。


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