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【86日目】原敬

ご隠居からのメール:【原敬】

原敬の生没年は1856(安政3)~1921年(大正10年)で、大正7年(1918年)に総理大臣に就任した。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、中岡艮一に襲撃され、殺害された。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。 

盛岡藩・盛岡城外の本宮村で盛岡藩士・原直治の次男として生まれた。 幼名は健次郎。 原家は祖父・直記が藩の家老職を務めたほどの上級武士の家柄だ。したがって、当然、士族、華族の身分だが、当時の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相」と呼ばれた。なぜ、わざわざ平民を選んだかというと、若い頃、キリスト教カトリック派の洗礼を受け、布教活動をした経歴とかかわりがあるのではないかと思う。

それなら山室軍平と親交があったのではないかと思うが、今のところまだ確認はとれていない。山室軍平は新島襄の影響を受けていることからプロテスタントであり、カトリックの信者ではない。キリスト教もややこしいね。ただ、軍平の著書『平民之福音』は原敬も読んでいたはずだ。

原敬の子分なら豊島陽蔵さんも家老の息子でありながら、親分にならって自らを平民と称したのかもしれない。ただし、豊島家の人々はキリスト教徒とは縁がない。原敬は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったといわれる。家柄自慢のような行為は自らを卑しくするような言動と考えていたし、徹さんも同じように考えていたのかもしれない。精神的には平民ではなく、サムライだね。

佐藤信安さんは●●さん(博子:父)の弟。幼い頃に佐藤家の養子に入ったという推理は成立しうると思う。博子さん、信子さん、弟さんは豊島家の3人兄弟だったと思う。弟さんは若い頃、惜しまれて亡くなっている。


返信:【Re_原敬】

豊島家を探して、豊島陽蔵さんにいきついたのだが、豊島家のヒントである雲洲益田家を検索してもでてこない。確かに、毛利の家臣に益田氏がいたようだが、関ケ原のあとに毛利の永代家老として一緒に萩へ行っている。どちかというと、長谷部元信と顔見知りの間柄だ。

佐藤信安さんの出身地は、島根県の松江市なので、どちらかというと白鹿城の出雲松田氏の方がご縁がありそうだなと思いながら調べてみると江戸時代、松江のあたりは、松江藩で徳川直轄、殿様は松平氏だ。豊島家も謎が多いな。


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