見出し画像

■【より道‐57】歴史が刻まれる辺境の地_ノスタルジーなひととき。

ルーツをたどる気ままな旅は、宮島の「厳島神社」の参拝から始まりました。1日目は「厳島の戦」で活躍した長谷部元信のことを想像しながら当時の戦いを学び念願の牡蠣を食べて過ごすことができました。

そして、翌日、いよいよご隠居の故郷、岡山県新見市神郷町高瀬を目指します。2021年の8月のお盆の時期、天気は快晴です。

ただ、広島から岡山新見市にある高瀬までは、車で3時間ほどかかる長旅になるため朝一番で出発することにします。

運転は、福岡から車で合流してくれた山根さんです。山根さんは会社の元同僚で、20年もの長い間、お付き合いいただいている方でして、ご隠居とのメールのやりとりを一緒に深堀しながら意見交換したりしています。

車通りの少ない中国自動車道をドライブしながら、戦国期の様子を想像したりします。「当時、これだけ離れている土地をどうやって統治していたのでしょうね」

「それぞれ、そうを組織して代官に年貢を納めていたのでしょうけど、戦国期だと、今日は大内、明日は尼子、明後日は毛利と変わっていくわけですよね」

「村人からしてみたら、誰が領主だろうが、もはや関係なさそうですよね。実際知らない人もいたんじゃないですかね」

「とはいえ、戦になれば、兵として駆り出されるわけですから、土地の権力者に命を握られているようなもんですよね」

そんな話をしながらの道中は、時間が過ぎるのもあっというまでした。やがて、長谷部元信はせべもとのぶの領地だったといわれている広島県府中市のあたりを通りがけます。

「このあたりで降りると、広島県府中市の上下町ですね。高速を降りてから20分ほどの場所に翁山があるようですが、今日のところは先を急ぎましょう」

ご隠居さまである、父は、叔父(義弟)と叔母(義妹)を連れて翁山に行ったことがあるそうですが、45歳の自分には、まだ、ご縁がなかったようです。いつの日か行きたいなと思いながら、青空と広がる木々や田園を眺め、思いふけました。

しばらく進むと、昼前に岡山県新見市の神郷パーキングエリアに到着したので少し休憩することにしました。

車を停めて外に出ると、一瞬にして、なつかしい田舎の空気を感じます。なんというか、藁と家畜の香りが織り交ざったなんとも言えない、あの空気。

一人興奮して「高瀬の空気です」と、伝えると「うちの田舎の唐津の方でもこのような臭いでした」おっしゃっていました。きっと、田舎特有の空気なんだろうなと思いながらも、いよいよ高瀬に近づいてきたのだなと心が踊ります。

一休みして神郷パーキングエリアを出発すると、まもなく新見出口になります。いままでは、車で高瀬に帰ったことなどなかったので、新見市の街並みをみたのは初めてでしたが、ちょっとした街並みもすぐに森や木々に囲まれた道になりました。

そこからさらに、30分ほど車を走らせると、ようやく「新郷にいざと駅」に到着します。「新郷駅」は、あいかわらず無人で、誰もいません。電車もめったに通りません。駅の周りも手入れをしていないのか、草木が天に向かって伸びっぱなしでした。

「たしか、駅のわきに石碑がありまして、お祖父ちゃんの名前が彫ってあったんですけどね。どれだろう。」

あたりを見渡しますが、それらしき石碑がなかなか見当たりません。しかし、草むらの奥にようやく見つけることができました。

新郷駅をWikipediaでしらべると以下のように記してあります。

【新郷駅】
1953年(昭和二十八年)12月15日開業。最寄りの大きな町は岡山県新見市であるが、ここに出るために住民たちはいったん峠を徒歩で越えて、鳥取県側の上石見駅からの利用を余儀なくされていたという。

戦後民主化の時代となると、当時の新郷村長であった長谷部与一らは駅の開設を請願し、衆議院・近藤鶴代の努力により駅が設置された。開設に伴う諸経費約320万円は、村有林の材木を販売して地元で負担した。

開通の石碑裏に、お祖父ちゃんの名前がありまして、百万円寄付したと書いてあります。きっと、1953年当時では大金だったと思います。

そんな「新郷駅」ですが、いまでは、一日平均6人しか利用しない秘境駅になっています。それでもお祖父ちゃんが、仲間たちと情熱をもってつくった駅と石碑に孫の自分は、誇らしく思えます。

写真を何枚かとったあと、長谷部の土地を目指すことにしました。「前回来た時もそうなんですが、駅から結構離れてた気がするのですよね」

実は、自分の結婚式を挙げた2008年に両親に内緒でサプライズ映像をつくろうと、妻と二人でノーアポイントでこの地に訪れたことがありました。

あのときは、新郷駅の前に建っているお家に突然声をかけて、親戚のおばさんを呼んでもらいました。長いあいだ帰郷していない父や家族たちに、高瀬の様子を伝え喜んでもらおうと、お墓参りをしている映像を流したのです。

今日もなんとか、行けばみつかるだろうと車を進めますが、なかなか、到着しません。ポツンポツンとある家は、どれもオレンジ色の瓦屋根をしていて、どこがどこだかもわかりません。

途中、村人の方がいたので、声をかけて聞いてみると、あたたかく教えてくれます。「おおはらの家はもっと奥だよ」

いつも、思うけど村の人は本当にやさしいです。ノロノロと、あたりを見渡しながら車を進めると、右手に立派な「長谷部家の墓」と書いてある墓をみつけました。急いで車を降りて墓石の裏をみてみると「長谷部亀三」と書いてあります。

「亀三おじさんの墓だ」

まわりをみわたすと、約100m先に1軒の家が建っていて、洗濯物を干している女性がいます。あやしまれないように礼儀正しく、長谷部與一の孫だと伝えると話が伝わりました。そこが、信谷のぶたにさんの家でした。

信谷さんは、自分の6代前の弥左衛門さんのお姉さん、「ふゆ」さんが長谷部家から分家した家で、おそらく長谷部信連の「信」のいみなと長谷部の「谷」の字をとって、信谷と名乗ったのだと思います。

ご挨拶をして、墓参りがしたい旨を伝えると、お祖父ちゃんの家があった土地と旧墓地へ案内をしてくれました。そこには、傘のある「享保の墓」と、「尼子の落人」の墓とよばれている、苔むす丸い墓がありました。

さらに、古墓地から約20mほど、草木をかき分け先に進むと、すこし開けた土地に新墓地がみえてきました。

そこには、「戸籍謄本」でみた人たちの名が刻まれたお墓が並び、一番奥の真ん中には、太平洋戦争で戦死した菊二おじさんのお墓、そのとなりに、お祖父ちゃん、長谷部與一さんのお墓、お父さんが1歳の時に生き別れたお祖母ちゃん、貴美子さんのお墓がありました。

ファミリーヒストリーを調べて、ご先祖様たちが、どのように生き延びたか、少しだけでも知れたうえで、できたお墓参りは、本当にご縁のあることだなと思いました。

<<<次回のメール【172日目】多様性調和家族

前回のメール【171日目】子宝石>>>

この記事が参加している募集

おじいちゃんおばあちゃんへ

ふるさとを語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?