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■【より道‐70】戦乱の世に至るまでの日本史_足利義詮の生涯

中世の日本史は、意図的なのか、ややこしいからなのか、魅力がないからなのかわかりませんが、なかなか資料が残っていません。

しかし、長谷部氏のご先祖様を辿ると、中世の南北朝問題に大きくかかわっていたことがわかりました。当時は、それなりに勢力もあったようにも思えます。しかし、いつの頃からか、我々は名を長谷部と称しますが、「尼子の落人」という言い伝えが残されているわけです。

おそらく、戦国期になにかがあったのだと考えられますが、その理由を知るためには、もう少し、中世の様子を学ぶ必要があると思います。

「観応の擾乱」を勝利した足利尊氏が亡くなってから、日本という国はどのような道を辿ったのでしょう。そして、一番の難題、「応仁の乱」へはどのように向かっていったのでしょうか。


■ 足利義詮の功績
室町時代に活躍した人物を挙げると、ほとんどの人が、足利尊氏や足利義満の名をあげると思いますが、実は、足利尊氏の息子であり、足利義満の父である、足利義詮よしあきらという人物は、日本の歴史に相当な功績を残した人だと思っています。

もともとは、1333年(元弘三年)の「元弘の乱」で、鎌倉から一度脱出してから、新田荘(現:群馬県)から鎌倉に向けて挙兵した新田義貞と合流。総大将として、源氏の武士たちを集める役割を担い鎌倉幕府倒幕の旗頭となりました。当時の足利義詮よしあきらは、千寿王せんじゅおうと名乗る三歳の幼子です。

鎌倉で北条氏が滅亡した後、足利義詮は、足利尊氏の弟、足利直義ただよしに支えられながら鎌倉で過ごしました。三年後、北条氏の残党が挙兵し鎌倉に攻め込んでくると、後醍醐天皇の命令を無視した足利尊氏と共に戦います。といっても、足利義詮はまだ、六歳です。

その後、「建武の乱」で南朝との戦いに勝利し室町幕府が開かれると、父の足利尊氏は京都を、足利義詮は関東を統治することになりました。

月日が経ち、京の都では、高師直はじめ娑羅大名と足利直義が対立し、「観応の擾乱」が起きると、足利義詮は、足利直義に変わって、京の政事を任されるようになりました。1350年(観応元年)ですから、この頃には二十歳の成人になっていました。

しかし、ここからが激動ですね。

南朝に寝返った叔父の足利直義との戦では、高師直が殺害されて一度敗れてしまいます。このとき、最後まで抵抗したのが、足利義詮です。しかし、足方尊氏が京に戻ると、今度は、足利直義とその派閥を一掃するために南朝と手を組み挙兵しました。このとき、足利直義を追い詰めたのが、1351年(観音二年)。

その後、南朝が裏切り、北畠氏や新田氏が京に攻め込んできましたが、四か月後、再び、足利尊氏と共に京を奪還することに成功します。

すると、今度は、腹違いの兄、足利直冬が攻め込んできまして、これまた一時、京の都を奪われますが、すぐに奪還することに成功しました。これが、1353年(文和二年)。

次の波乱は、1355年(文和四年)佐々木道誉と旧、足利直義派閥の山名時氏が、出雲国の所領問題で対立。山名時氏が離反して、京の都に攻め込み一時占拠されますが、鎌倉から足利尊氏が挙兵したことで、山名時氏は撤退しました。

1358年(延文三年)足利尊氏が亡くなった年に、息子の足利義満が誕生します。

少々、横道にそれますが、足利義詮の正室は、渋川氏の娘でした。叔父の足利直義の妻も渋川氏の娘でした。しかし、足利直義、足利義詮ともに男児を授かりますが、幼くして亡くなっています。渋川氏と足利氏の相性が悪かったことで、日本史の運命は大きく変わっていたと思います。歴史の悪戯を感じてしまいますね。

さて、話しを戻しますと、足利義詮と側室の紀良子きのりょうしの間に足利義満を授かった、その年、足利義詮は、征夷大将軍に任命されました。

この頃の問題点は、山陰地方を制している、山名時氏、そして、足利直冬の衰退に乗じて長門国を中心に勢力を増している大内弘世などを掌握することができていないことでした。また、九州には、後醍醐帝の息子、懐良親王かねよししんのうが健在で、いまだ、南北朝問題が解決していません。

更には、室町幕府内の権力争いも続いており、ちょっと、気に入らないことがあると、南朝に離反したりするので、武士たちを治めることに苦労をします。

しかし、1363年(貞治二年)山名氏と大内氏を室町幕府の味方になりました。

この時、幕府への帰順を条件に山名時氏は、伯耆(現:鳥取)と丹波(現:京都府中央)の守護に、長男の山名師義もろよしは丹後(譲渡府北部)、三男の山名氏冬うじふゆは因幡国(現:鳥取県北部)、五男の山名時義ときよしは美作国(現:岡山)の守護に任命しました。

そして、足利義詮は1367年(貞治六年)三十八歳の若さで亡くなりました。このとき、足利義満は、わずか十歳で家督を継いだことになります。

この頃のご先祖様の具体的な情報はありません。しかし、1555年(弘治元年)「厳島の戦」に参戦した、長元信の腹違いの兄に、大内蔵左衛門信澄というご先祖様がいることがわかりました。信澄は、大内氏の養子になったのだと思います。

なので、足利直冬の勢力が失われるとともに、立地的にも、まずは、山名氏の勢力下で生き延びていたのだろうと推測しています。長谷部氏は、もともと、平安時代に山名氏とは血縁関係にあったようなので、それなりの待遇を得ていたかもしれません。

とはいえ、山陰地方の動乱は、「元弘の乱」からずっと続いていたということがわかりました。ご先祖様は、相当苦労したことでしょう。


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