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【210日目】釈尊伝

ご隠居からのメール:【 釈尊伝】

>>お父さんのように、長生きすると、同じ人生観を共有した友がこの世を
>>去り一層、孤独を感じていくんだね。お父さんにとって徹さんの存在
>>は、相当、大きな存在だったね。

ーー徹さんは、オレより九歳若かったが、哲学に関してはいわば先生のような存在で、いろいろ教えてもらった。そもそもこのようなメールのやりとりが始まったのも徹さんの他界がきっかけだ。彼は孤独に耐える力を持っていたから、オレも見習って、今は孤独の修行をしている。

「仏さんが一番いい時に死なせてくださる」というのは素晴らしい遺言だよ。「死なせてくださる」とは感謝の言葉の表現だ。オレの心の中では、『釈尊伝』を読んで、修行した伝蔵さんが、ロンドンで「意識」をテーマにして思索を続けた徹さんが重なっている。

徹さんは一人息子だったから、父母に愛されて育ち、最高の教育環境を与えられた。オレから見れば、羨ましいような環境だが、ある意味では愛されすぎるのも不幸なことで、その意味では気の毒な人だった。

ただ一つ理解できなかったのは、帰国した後、京都の叔母さんとの再会を拒否し続けたことだ。感性の問題だと彼は言ったが、浩一さんの人柄からも推測できるように、叔母さんも親身で徹さんのことを心配していたにちがいないと思う。しかし、「どんなによくしてくれても、母親の代わりはできない」と、徹さんは言ったことがある。今になってみれば、その気持が少しは理解できるような気がしないでもない。

長谷部元信、信澄の兄弟は、信澄のほうが妾腹の兄だったという話も面白い。兄でも備後の翁山城を継ぐことができず、小早川氏や福島氏につかえて、リストラの憂き目にあった。信澄の子、吉連が菅生村西谷の地を長牛之助から相続し、名を西谷に変えたという仮説は十分に成立し得ると思う。

『息子へ紡ぐ物語』をあらためて、最初から読んでみたが、45歳の平凡なサラリーマンと82歳の売れない作家とのメールのやりとりをはじめたというのは、高齢者社会においてもかなりめずらしいことで、ベンチャー的な試みかもしれないなという気がしてきた。

話題もマラソンやスイミングから平家物語、そしてノモンハンなどへと時空を超越して往来するというはちゃめちゃな展開のストーリーは意外と面白いーーと思うのは自分自身がご隠居として登場する身内の物語だからだろうか。


返信:【Re_釈尊伝】

『息子に紡ぐ物語』は、いろんな要素が含まれていると思っているよ。

一つ目は、「ファミリーヒストリー」、82歳の父から45歳の息子へファミリーヒストリーを紡ぐこと。これは、ときに、祖父母の興一さんや貴美子さんから、息子へ紡ぐ話も登場する。もちろん、自分にとっては、自分の息子へ紡いでいるつもりだ。

二つ目は、日本史、ときには、世界史を通じて現代社会の問題提起を老後の御隠居と、中年サラリーマンがしているということ。たわいもない会話だが、自分のチカラで調査し、考えぬいた上で、答をだすというノウハウを、父から受け継ぎ、息子へ紡いでいるつもりだ。

三つ目は、作家の父にならって、物書きに目覚めた息子への特訓の様子。これは、文章構成、表現の方法、知識の活用方法などを息子へ直接指導をして、スキルを紡いでいる。昨晩「インディージョーンズ最後の聖戦」を金曜ロードショーでやっていたが、あの映画も蛙の子は蛙。父さんが本を出版したように、自分もいつか、世に公表できるようになったらいいね。

四つ目は、スピリチュアル不思議体験。これは、不確定要素ではあるが、ご先祖さまのことを考えてから不思議なチカラが働き、導かれていると思っている。この流れは、身を任せるしかないが、間違いなく良い方向に向かっていると実感している。

五つ目は、親子愛。毎日メールをすることで、高齢者のボケ防止の役にたつだろうし、お互いの近況をメールを通じて毎日していることは、現代の直系家族の先進的な在り方と捉えても良い。同じ家には住んでいないが、デジタルでつながっている。社会的にも意味のあることだと思うよ。

それ以外にも、父さんの本や備中高瀬のプロモーションになればラッキーくらいに、思っているが、一番の目的は、子孫へ物語を紡ぐこと、それさえできれば、それでいい。

我々のご先祖さまが、信澄系の可能性が出てきた。小早川氏や福島氏に属していたということは、毛利方として関ヶ原に参戦し、豊臣方から徳川に寝返った福島氏に属したが、福島氏は、徳川得意の言いがかりでお家が潰されてしまった。信澄系のご先祖さまは、まさに七難八苦を経験している。

この流れから長牛之助が秀吉から感状をもらい、菅生村西谷の地を賜ったことの辻褄を合わせると、長牛之助は、時代的に信澄の息子、吉連の兄弟だ。もしくは、その息子、信秀の兄弟が牛之助で、小早川氏を離れ、尼子再興軍として上月城の戦に参戦したのかな。本流を離れ、尼子再興軍に賭け、一発逆転を狙ったようにもみえる。


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