【209日目】長元信と長信澄は兄弟
ご隠居からのメール:【 長元信と長信澄は兄弟】
『藝藩通志』という安芸、備後の一級歴史書の存在は知らなかったが、長谷部元秀に大内蔵左衛門信澄、加賀守元信という二子ありという記述は面白い。
「元信といへるは今系図にのせず。しかれども信澄の下に「妾腹不続家」と註せるを以て按ふるに、元信は信澄の弟にして嫡腹なりしが、嗣子なきに依りて終に系図に脱せるものならんか」となると、ますます面白い。
船岡山の戦は、1511年(永正八年)だから、ずいぶん古い話だね。この戦には尼子経久も大内義興に従って、上洛、参戦したと伝えられている。この時点では経久は信澄とはほぼ同格の身分だったと思うが、その後、尼子氏は山陰の雄として大内氏を圧倒する勢力にのしあがって、格差の違いを見せつけた。1511年(永正八年)の時点での詳細は不明。続編を期待している。
一方、『息子へ紡ぐ物語』を見ると、【より道‐14】 松田伝蔵、という記事だ。伝蔵さんは、このファミリーヒストリーでは、長元信や長牛之助に匹敵する、いや、それ以上の役割を果たす重要人物だから、このタイミングであの程度のさわりだけでも紹介しておくのは適切かつ効果的だと思う。
伝蔵さんの思想は、わかりやすく、ほぼ納得できる。脱尼子の落人をはたした長谷部家の新しい家訓として参考にさせてもらいたいと思う。浦安にも金光教の布教所があることを確認したが、布教所に顔を出すつもりはない。古本屋で三千円の代金を払って入手した小冊子「金光教の道」一冊があれば、当面はそれで十分だ。
「お寺や宗教団体とつきあってもいいことは何もない」と無神論の現実主義者は言うが、人間は孤独な存在だ。現在ただいまの孤独をまぎらわせてくれるグループがあれば、よほどのことがないかぎり、まじわりを続けて、価値観の共有を確認したくなる気持ちは理解できる。
返信: 【Re_長元信と長信澄は兄弟】
お父さんのように、長生きすると、同じ人生観を共有した友がこの世を去り一層、孤独を感じていくんだね。お父さんにとって、従弟の徹さんは、相当、大きな存在だったね。自分にも心許す大切な友人達が多くいるが、その人達との時間も、大切にしていきたいと心から思う。
さて、昨日のつづきを以下記載する。
「信澄二子あり。加賀守元信は、嗣子なきによりて庶兄(※妾腹の兄)信澄の子信重が其あとをうけ、吉連(二男)は、備後に在りて是より分かれて二家となれり。吉連の男二郎信秀、其子甚五太夫実清、小早川隆景に従って高麗に戦死す。其弟甚太夫成連、家を稟けて又隆景に仕え、隆景の卒後は福島正則に仕える。其の子太郎左衛門信成、父と共に福島氏に仕えて安芸広島にあり。元和五年(1619年)福島家絶の後、浮浪となりしが、子孫は今は、長門藩、安芸藩に存すといえり。」
正直、ここまで記録が残っていたらスゴイ。西谷家の家系図に書かれている名前や文章ともほとんど一致する。
自分なりに解釈すると、元信と信澄は兄弟で、兄、信澄は厳島の戦の翌年、38歳でこの世を去る。元信は長谷部家の家督を継ぐが、子供が生まれず、信澄の子供、信重と吉連に長谷部の名を継がせて二家にわかれる。吉連は、小早川や福島に仕える。その子供、信成は、、、なんと、菅生村西谷の地を長牛之助から相続し、名を西谷に変えている。
長牛之助が、信重系か吉連系のどちらかかわからないが、恐らく、信重は翁山を相続し、吉連は小早川や福島氏の家臣となっている。「尼子の落人」と称する推理は、まだ、思いつかないが、信成が相続しているのであれば、長牛之助はたぶん吉連系統となるはずだ。
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