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■【より道‐97】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嘉吉の乱」

鎌倉から室町の中世時代を学ぶことで、ご先祖様のターニングポイントを想像できるようになってきました。

平安時代末期の「以仁王もちひとおうの挙兵」。鎌倉時代末期の「船上山せんじょうさんの戦」。そして、足利義満(よしみつ)の謀事「明徳めいとくの乱」では長(長谷部)一族が同族同士で戦った様子がうかがえます。

そして、我が家の「家系図」をみると、その後の中期から後期にかけては、長谷部信明さん、そして長谷部義行さんが、室町時代を過ごされているようです。

当時は、足利義満(よしみつ)の息子で、第四代将軍・足利義持(よしもち)の弟である足利義教(よしのり)が、籤引くじびきで兄から家督を継ぎ、第六代将軍になりました。当時、35歳でした。

足利義教(よしのり)は、独裁政治で世を治めたと言われています。将軍職の重責を乗り越えるために、独裁の道を選んだ足利義教(よしのり)。今回は、室町幕府の崩落と戦国時代突入のきっかけになった「嘉吉かきつの乱」を学んでみたいと思います。


■第六代将軍・足利義教

もともと、兄の足利義持(よしもち)が、足利義満(よしみつ)から家督を継いだため、足利義教(よしのり)は、仏門にはいり出家していました。

そして、足利義持(よしもち)は、自らの息子、足利義量(よしかず)に家督を継ぎましたが、足利義量(よしかず)は、わずか17歳で亡くなってしまいます。最愛の息子を失った足利義持(よしもち)は、後継者を決めずに将軍代理として政事を行いますが、やがて、本人も、病を患ってしまいました。

足利義持(よしもち)が、後継者を決めなかった理由は、神社でくじを引いたときに息子を授かるとお告げがあったからだそうです。また、自らの夢でも息子を授かる夢をみたとかーー。

弟たちには、将軍の素質がないと思っていた足利義持(よしもち)は、最後まで神を信じ続けていたということになります。

しかし足利義持(よしもち)に、いよいよ死が迫ってくると、家臣たちが後継を決めるようにお願いします。すると、足利義持(よしもち)は、四人の弟たち籤を引き将軍を決めるよう指示をだしました。

そして、籤引きで当選した足利義教(よしのり)は、俗人にもどるため還俗げんぞくして、1年後に元服、征夷大将軍に就任しました。


■万人恐怖の専制政治

将軍就任を果たした足利義教(よしのり)の目標は、兄の足利義持(よしもち)の長い治世のうちに失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活でした。そのために、父・足利義満(よしみつ)の政策を模倣し、万人恐怖の専制政治を行ったといいます。

どのようなことをしたかというと、まず、歴代政権を悩ませてきた比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを焼き討ちにします。正確には、幕府と対立していた4人の門徒を捕らえ打ち首にしたことに、延暦寺の山徒24人が抗議するために寺を焼き払い焼身自殺をはかりました。炎は京都からも見え、世情は騒然となったそうです。

そして、延暦寺と通じていた、鎌倉公方、足利持氏(もちうじ)と対立します。足利持氏(もちうじ)は、自らの政事まつりごとをたびたびいさめていた関東管領の上杉氏討伐を指示すると、これを好機ととらえた足利義教(よしのり)が、足利持氏(もちうじ)を朝敵として、一族を殺害しました。

他にも有力大名である斯波氏・畠山氏・山名氏・赤松氏・京極氏・大内氏の家督相続に強引に介入して、意中の者を家督に据えさせます。これは、足利義満(よしみつ)がとった、謀事はかりごとと似ていますが、中身は違います。

足利義満(よしみつ)は、有力大名の勢力衰退を図り、南北朝問題を解決するために家督相続を利用しましたが、足利義教(よしのり)は、自分のいうことを聞く人間に家督を継がせました。

他にも、足利持氏(もちうじ)討伐に難色を示した一色氏と土岐氏の当主は、「大和永享やまとえいきょうの乱」で粛清されたといいます。

他にも、後南朝勢力を根絶やしにすると方針を示し壊滅させたり、足利義教(よしのり)が虐殺したという噂をながした比叡山延暦寺の僧侶を斬首したり、献上された梅の枝が折れたことで8人を切腹などに処したりなど、まるで、どこかの国のような、専制政治を行い続けました。


■嘉吉の乱

赤松満祐みつすけの長男・赤松教康のりやすは、足利持氏(もちうじ)の遺児たちと共にたちあがった、忠臣・結城氏との戦、「結城合戦」の祝勝の宴として、赤松氏伝統の演能である、松囃子まつばやしを献上したいと自らの館へ足利義教(よしのり)を招きました。

この宴に相伴した大名は管領・細川持之もちゆき、畠山持永もちなが、山名持豊もちとよ、一色教親のりちか、細川持常もちつね、大内持世もちよ、京極高数たかかず、山名熙貴ひろたか、細川持春もちはる、赤松貞村さだむらで、足利義教(よしのり)の介入によって家督を相続した者たちでした。

一同が猿楽を観賞していた時、突然障子が開け放たれ、甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入、足利義教(よしのり)を斬殺しました。

宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名・近習達の多くは即座に退出しました。抵抗をしたのは、守護大名の大内持世もちよ、京極高数たかかず、近習の細川持春もちはる、山名熙貴ひろたかのみであったとされます。山名熙貴ひろたかは即死、京極高数たかかずと大内持世もちよも瀕死の重傷を負い、後日死去しました。

強力な独裁者を突如失った室町幕府は、足利義教(よしのり)の子供たちも幼かったことから大混乱しました。2か月後、細川持常もちつね、赤松貞村さだむら、山名持豊もちとよ宗全そうぜん)ら山名一族ら幕府軍が播磨国、備前国、美作国に進軍し、赤松満祐みつすけは自害しました。

守護大名による将軍暗殺という前代未聞の大事件でしたが、世の人々は「自業自得」「将軍の犬死」と足利義教(よしのり)を嘲笑したと言われています。


専制政治を目指した、足利義満(よしみつ)、足利義教(よしのり)。公武一体をめざした足利尊氏(たかうじ)、足利義持(よしもち)といったところでしょうか。「嘉吉の乱」でも、ご先祖様は出陣したかもしれません。


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