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■【より道‐80】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_一色氏

■四職の筆頭
足利幕府を支えたのは三管領と四職。そのうち四職の筆頭と目されたのは一色氏ーーといっても、「へー、そうなんだ」という反応しかかえってこないのがふつうでしょう。一色氏は他の四職家である山名氏、京極氏、赤松氏と比べても、華々しい実績にとぼしく、どちらかというと地味な存在です。

吉川英治の小説『私本太平記』によれば、若い頃の足利又太郎(後の尊氏)が京に遊んだときの随行者ずいこうしゃで、その後も主君への忠誠を尽くし続け、さらに尊氏が白拍子しらびょうしに生ませた足利直冬親子を陰になり、日向になり、支え続けるのが一色右馬之助です。

小説のことですから、実在の人物かどうかわかりませんが、一色氏にとって足利氏は本家。本家の若殿のために似たような役割を果たした人物がいただろうとは想像できます。

では、なぜそんなに地味な印象しか与えない一色氏が四職の筆頭とみなされたのかというと、「明徳の乱」での功績が高く評価されたからだそうです。ところが、「明徳の乱」がどのようなものだったかといえば、六百年後の現在では誰も知らない。いや、知っている人もいることはいますが、知る人ぞ知る、といった程度にすぎないでしょう。


■明徳の乱

「明徳の乱」は、南北朝時代の1391年(元中8年/明徳2年)に山名氏清うじきよ、山名満幸みつゆきら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱です。

なぜ山名氏が足利幕府に抗って反乱を起こしたかというと、山名氏の存在に脅威を感じていた三代将軍・足利義満よしみつの挑発に乗ってしまったからという説があります。

当時、山名氏は全国66か国のうち11か国を領国とする大大名で、「六分一殿」と呼ばれていました。新田氏の流れをくむ山名氏には、伝統的に「足利案山子(かかし)」を侮る気風があり、足利幕府にとって代わって、山名幕府を開くチャンスを虎視眈々と狙っていました。

将軍・義満は山名氏が煙ったくてたまらない。たまたま山名氏に内紛があったので、さらに巨大化する前に芽をつぶしておきたいという動機があったようです。

足利義満の率いる幕府軍は主力を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機して、京へ攻め上る山名軍を迎え撃ちました。

この事実からも一色氏が幕府から深く信頼されていたことがわかります。一色氏は若狭国(現:福井)の守護でしたが、領国内には山名氏に恩賞として与えられた今富名いまとみみょうなどがあって、領国経営がうまくいかず、山名氏に対して強い反感を抱いていました。

戦は一日で決着がつきました。山名氏清は落ち延びようとしましたが、一色勢に取り囲まれて一色詮範あきのり満範みつのり父子に討ち取られます。

戦後の論功行賞ろんこうこうしょうで山名氏からとりあげられた|若狭国の今富名が一色氏に与えられたのは当然です。「六分一殿」と称され、十一か国の守護領国の主だった山名氏は僅か三か国に減らされてしまいました。しかし、その後の歴史をみると、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」では山名宗全が西軍の大将になるほどに勢いを盛り返していますから、なかなかしたたかな一族です。


■一色の落人
我が家のご先祖は「尼子の落人」といわれています。尼子氏は没落し、戦国大名ではなくなりました。一色氏にも似たような没落のイメージが漂っています。

足利幕府を支えた四職のうち一色氏を除く三氏、山名氏、京極氏、赤松氏は明治時代まで家を存続させ、華族に列していますが、一色氏は戦国時代に細川藤孝に領国丹後を侵攻されて、守護大名としては滅亡してしまいました。

しかし、一色氏のDNAは二十一世紀の現在にも伝わっているはずです。たとえば、青山学院駅伝部を卒業して実業団で活躍中の一色恭志ただし選手は、いかにもサムライのような凛々しい風貌の持ち主です。私は彼が走っているのをみるたびに、声援を送りたくなります。


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