見出し画像

■【より道‐75】戦乱の世に至るまでの日本史_婆娑羅という生き方

自分の名字である、長谷部氏のファミリーヒストリーを調べながら日本史を学んでみると、1333年(元弘三年)の「船上山の戦」そして、1336年(延元元年)「建武の乱」で大きく運命が変わっていたことがわかってきました。

しかし、その後、1511年(永正八年)の「船岡山合戦」まで、ご先祖様が歴史に登場してくる様子が今のところ見当たりません。

そこで、家訓として残っている「尼子の落人」という言葉から、尼子氏とのつながりがある、佐々木氏、なかでも鎌倉幕末から南北朝の動乱を生抜いた、佐々木道誉の視点から、歴史を辿ってみたいと思います。


■ 婆娑羅という生き方

佐々木道誉、またの名を京極道誉の一族である佐々木氏は、平安時代末期、源頼朝のもとにいち早く参戦した、「源平合戦」に佐々木秀義ひでよしを始祖として、近江国(現:滋賀県)を発祥の地とした、宇多源氏の一派になります。

佐々木道誉は、鎌倉幕府時代、得宗の北条高時の御相伴衆として、将軍の宴席や他家訪問の際に随従する役職を担っていました。口が達者で、北条高時からも、面白い人物だと評価を得ていました。

服装なども華やかで、華道や猿楽を好み、フィクションの要素がある「太平記」では、旅の一座の白拍子「藤夜叉ふじやしゃ」を、源氏の棟梁である足利高氏に紹介して、後の、足利直冬が生まれたといわれていますが、この話しは、さすがにできすぎですね。

鎌倉末期、なかなか、ホンネを明かさない佐々木道誉は、足利高氏に近づき、高氏の心の内を探ります。それだけ、鎌倉末期は、北条平氏に権力が集中して、民が貧しい生活をしていたのだと思います。

1333年(元弘三年)足利高氏が、北条高時の命令で、船上山に籠城している後醍醐帝を討伐するために、鎌倉から兵をあげると、近江国を通りかかります。そこで、佐々木道誉と足利高氏は何かを示し合わせたと考えられています。

というのも、北条平氏は、後醍醐帝の討伐のためとはいえ、足利一門が集まり挙兵することに、リスクを感じていました。船上山を目指すのではなく、一族が集結したところで、反転して鎌倉に攻め込まれたら大変なことになる。そこで、北条平氏は、佐々木道誉に足利高氏が寝返って鎌倉に兵を向けた場合は、足利軍の背を討つように秘密裏に命令していたようです。

結果、足利軍と佐々木軍は、近江国で同盟をくみ、ともに京都の六波羅探題を攻め落とし、京の都を制圧。船上山にいる後醍醐帝を迎え入れました。


この頃の佐々木一門の宗家は、佐々木六角氏でした。六角氏は、六波羅探題の指示のもと、最後まで幕府軍として、足利軍、佐々木軍と戦っていますが、佐々木道誉の活躍により、お咎めなしとなっています。

また、隠岐から後醍醐天皇を逃がしてしまった、佐々木隠岐氏は、同族の佐々木塩冶氏の裏切りにより滅亡しました。佐々木氏も幕府軍と反乱軍にわかれ、時代の変化になんとかついていったのだろうと思います。


さて、佐々木道誉は、婆娑羅大名とよばれていました。婆娑羅と言う意味を調べてみると「派手で勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい、またはそのようすを表す。」と表現されていますが、なんとも、想像がつきません。

北方健三の「道誉なり」では、婆娑羅とは、「こわすこと」と表現していました。確かに、佐々木道誉は戦に強く、鎌倉を毀しましたが、そんなことをいったら、足利尊氏も婆娑羅なんじゃないかなと思います。

後醍醐天皇も織田信長、豊臣秀吉も婆娑羅ですかね。

でも、じぶんは、なんとなくですが、婆娑羅とは、猿楽のように「演じる者」だと思いました。そして、「道理を通す者」。佐々木道誉のすごいところは、「先の先まで思考する者」のような気がします。

そこで、フィクションも含めて、いくつか、佐々木道誉のエピソードをまとめて、じぶんなりの想像を言葉にしてみようと思いました。


<<<次回のメール【226日目】少年よ、大志を持て

前回のメール【225日】長谷部の舎人>>>

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,195件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?