【225日】長谷部の舎人
ご隠居からのメール:【長谷部の舎人】
洲之内徹『棗の木の下』を若い頃、読んだことがあるような気がしていたが、それは記憶ちがいの錯誤で、実は読んでいないことがわかった。図書館で洲之内徹全集を借りて確認し、判明した。
なぜ錯誤が生じたかというと、芥川賞の候補になった『終わりの夏』の選評を読んだからだと思う。たしか昭和三十六年で、受賞作は宇能鴻一郎『鯨神』。当時のオレは水産会社への就職が決まり、海洋文学に関心があったが、『棗の木の下』は戦争文学だ。今、読み直したら、『棗の木の下』のほうが優れた小説だと思うかもしれない。
『古事記』によれば、「大長谷若健命、長谷の朝倉宮に座しまして、天の下治らしめしき」となっている。大長谷若健命は雄略天皇だ。ということは、「長谷」は天皇の若かりし頃の名前の一部だということにもなる。
奈良には長谷寺があり、鎌倉にも長谷寺があり、麻布にも長谷寺がある。奈良と鎌倉の長谷寺は「ハセデラ」だが、麻布の寺は「チョウコクジ」だ。
「隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の山の 大狭(おほさ)には・・・・・・」という歌も紹介されている。「長谷」は泊瀬に由来しているようだ。現在も奈良の長谷寺の近くに泊瀬という地名がある。何年か前に長谷寺のお詣りしたことがあるが、地形が高瀬に似ているような気がした。高瀬こそ「こもりく」だ。
六世紀後半、雄略天皇の時代に長谷部の舎人が定められ、十二世紀末、『平家物語』で長谷部信連が武功をあらわすまで、長谷部という姓は歴史の表面からは消えていた。
信連は三浦氏の五男として生まれたのなら、改姓するか、養子になったのだろう、雄略天皇によって定められた長谷部の舎人とのDNA上のつながりはわからない。その間に約六百年の歴史の空白がある。
返信:【Re_長谷部の舎人】
長谷部信連は、三浦義明の五男、長井義李が改名して長谷部信連を名乗ったと理解している。来年から始まる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しみだ。ドラマが始まれば混雑するだろうから、その前に家族を連れて鶴岡八幡宮に行きたいな。
土曜日は、実家に帰ったので、図書館に行けず、「棗の木の下」を検索することも出来なかった。戦争文学なんだね。益々興味がある。洲之内徹さんは、中国で工作員をしていたというから、戦争の闇を知り尽くしているだろう。
昨日、娘は、水泳の記録会だった。コロナ禍で応援しに行くことはできなかったが、オンラインでLIVE観戦することができた。順調に成長しているとおもうよ。彼女は、11月から週四日でスイミングスクールに通うことになる。夢はオリンピックで金メダルを獲り、両親に家を買ってくれるそうだ。結婚は、水泳選手を引退した三十歳でするとのこと。末恐ろしいが、彼女は、我が家で唯一志を持っているのかもしれないね。
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