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■【より道‐33】大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの③

現在、中華人民共和国と呼ばれる国の歴史は短く深い。1911年(明治四十四年)に大清帝国・最後の王朝が滅亡して、わずか34年後の1945年(昭和二十年)に日本国が敗戦すると毛沢東率いる共産党軍が中国大陸全土を制した。中国国内で共産党軍と戦った国民党軍は「三十六計逃げるがごとし」と台湾へ向かうことになったが、その戦いは現代でも続いている。

日本の25倍もの面積をもつ大陸に13億人以上の人口、55の民族が共存しながら経済大国NO.2にまでのしあがった中国は素直に凄いと思う。中国は、満州国の軍需施設を得ることで絶大なチカラを持つことができたのだから、スローガンも引き継いで王道楽土、徳の道を極めてもらいものだが、それは難しそうだ。

ふと、自分の人生を振り返ってみると、過去に1度だけ上海へ行ったことがある。台湾や香港・マカオ、モンゴルにもご縁があって旅をしたことがあるが、ロシアには一度も行ったことがない。日常生活でも中国をはじめ韓国、アジアの情報や文化に触れることはあるけど、ロシアは本当にない。あるとすれば、ニュースでみるプーチン大統領くらい。

それだけ日本とロシアは、お互いに遮断している関係なんだろうか。それとも、たまたま自分の人生で縁がないだけなのだろうか。ロシアは、日露戦争で日本に敗戦し第一次世界大戦でドイツに敗れた。アメリカとの冷戦でソ連は崩壊したわけだから、ロシアにとって日米独はいまだに敵国なんだろう。だとすると、いったいロシアはどの国と仲がよいのかな。


【ロシアとの戦い】
日清戦争で勝利した日本は、下関講和条約で「朝鮮の独立」と「台湾、遼東半島の割譲」「賠償金の支払い」などを約束しました。しかし不凍港を手に入れたいロシアが邪魔立てします。ロシアは、ドイツ、フランスを味方に取り入れ日本に対し遼東半島を返還するように求めてくるのです。「三国干渉」ですね。

日清戦争を終えたばかりの日本は、3カ国と武力戦争をしたとしても敗戦は目にみえています。泣く泣く日本は遼東半島を返還することになりましたが国内では臥薪嘗胆がしんしょうたんという言葉が流行りました。「いまは、我慢していつかロシアに仕返ししよう」ということです。

他にもロシアは、大清帝国に対して日本から請求されている賠償金を肩代わりすることを提案すると密約を交わしました。その内容は、日本がロシアもしくは大清帝国に侵攻してきた場合、お互いに防衛しましょうという約束です。大清帝国は、いままで散々、色んな国からいじめられてきたのにこんな優しい提案はありません。喜んで密約を交わすことにしました。

するとロシアは、日本が攻めてきたときの対策として満州にロシア軍を駐留させて役人や軍人の治外法権を認めさせます。更には、東清鉄道建設を決定しロシアのチタという都市から満州哈爾濱はるぴんを経由してウラジオストクまで路線を敷設することまでも認めさせました。

地図をみるとわかるのですが、ロシアがアヘン戦争に便乗して結んだ「アイグン条約」や「北京条約」で獲得したウラジオストクと、ロシアのチタまでは、黒竜江省と吉林省を横断して一直線に線路を引くので、線路より北側はロシアの領土にもみえてきます。

更には、満州哈爾濱はるぴんから遼東半島にある旅順港まで路線を拡大すると、満州がちょうどT字に3分割されるように見えます。自分は、「三国干渉」の最終的な意図は、ここにあったのではないか、つまり、満州をロシアとフランス、ドイツで奪い取ろうと約束したのではないかと想像したりもしています。なぜなら、この東清鉄道のお金はフランスが出資しているからです。さらにこの流れから1894年(明治二十七年)にロシアとフランスは軍事同盟を結びました。

さて、ロシアは、念願の不凍港である旅順港を手に入れることができました。凍らない港に戦艦や巡洋艦、駆逐艦などのロシア軍・太平洋艦隊を入港させました。さあ、いよいよ次に狙うは、朝鮮そして日本です。日本の植民地化が成功すれば、太平洋への海洋進出も夢ではありません。

しかし、大清帝国の国民もいよいよ我慢ができなくなります。1900年(明治三十三年)に外国人たちを追い出す運動「義和団事件ぎわだんじけん」が勃発し北京にある各国の公使館を包囲しました。そのながれで、清国政府も呼応し列国に対し宣戦布告「北清事変ほくしんじへん」が勃発しましたが、日本・ロシア・ドイツ・イギリス・アメリカ・フランスなど8ヵ国が鎮圧しました。多国籍軍は講和条約に基づき、ただちに撤兵することになりました。

ところが、満洲支配の既成事実を欲するロシアだけは、東清鉄道の南路線が義和団に破壊されたことを理由に「鉄道の建設修理事業を保護するため」という理由で撤兵に応じず、逆に部隊の規模を増大させる行動に出ました。着々と南下政策を進めるロシアと戦争をしたくない日本は、切羽詰まってきます。ロシア側との交渉の場を設けて、「朝鮮を日本の支配下に置くことを認めてくれれば満州には手を出さない」という妥協案を提案しましたが、ロシアは認めてくれませんでした。

いよいよ、戦争を覚悟する日本はイギリスと日英同盟を結ぶことになります。ここまでの話しを整理すると、大清帝国の領土をアヘン戦争でイギリスとフランスが侵略して、それに便乗した日本とロシアがそれぞれの列強につき、日英VS露仏の構図となったことがわかります。

そして、いよいよ1904年(明治三十七年)日露戦争が勃発します。日露戦争は、有名な「奉天会戦」や「旅順港攻略戦」バルチック艦隊を撃沈させた「日本海海戦」など、日本は連戦連勝で軍事目的を達成し続けました。更には、ロシア国内で明石大佐が革命派たちを支援し「ロシア革命」を起こしロシア王朝が滅亡したというわけです。

日本は、局地戦で勝利をしていましたが、戦力が枯渇していたということもあり、アメリカの仲裁で講和条約を結びます。その内容は、日本が朝鮮半島の保護権を持つこと、ロシアから南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を得ることなどでしたが、賠償金を得ることはできませんでした。

日清戦争のときの日本軍の死者数は、約1万3千人。戦費とほぼ同額の賠償金を清国から得たうえで利権を獲得しました。しかし、日露戦争の死者数は、約9万人で賠償金がもらえなかったそうです。その結果、納得のいかない日本国民は、日比谷焼き討ち事件などを機に国民熱狂時代に突入していくのです。


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