見出し画像

【28日目】地名改称の謎ー吉野村から高瀬村の場合ー

ご隠居からのメール:【地名改称の謎ー吉野村から高瀬村の場合ー】

 随筆の件、来年に「地名改称の謎ー吉野村から高瀬村の場合ー」を予定することにしたい。雑誌の出版継続が条件だが「新見太平記」「尼子の落人」とともに三部作となる。

 これまでは長谷部氏のことを書いたが、今回は松田氏が主役で、松田誠保から松田伝蔵までの消息を追う。特に伝蔵さんだ。われわれともDNAがつながるご先祖の一人だと思う。

 松田誠保と長谷部元信との接点については資料が出てくるとは思えないが、ともに尼子側だった時期もあるし、高瀬村では隣家同士だったことから、どこかでつながったことは間違いない。

 「松田家の歴史」という資料によれば、松田誠保(?ー1578)の父は松田政久、妻は尼子政久の娘、子は万千代、千々世。

 ①1562年:毛利氏に通じるが本城常光討たれるをみて尼子氏に転じる。
 ②1563年:白鹿城の戦にて毛利に敗れ、隠岐に逃れる。帰農。
 ③1578年:上月城の戦にて敗れ、逝去。

 この記述でマチガイないか、確認してほしい。「松田家の歴史」の筆者名も教えてくれ

【歴史】
1550年:尼子時代に備前松田と出雲松田が枝分かれ
1555年:長谷部元信厳島の戦いで活躍する
1563年:出雲松田は白鹿城の戦いで毛利に敗れる
1566年:尼子再興軍月山冨田城の戦いで毛利に敗れる
1568年:備前松田は金川城の戦いで宇喜多に敗れる
1600年:関ケ原の戦いで毛利は動かず
1600年:毛利112万石が36万石に。
1600年:宇喜多は小早川の裏で滅亡
1600年:小早川が岡山藩主となり高瀬管轄
1602年:小早川はわずか2年で死亡
1603年:森可成の子忠政が津山藩立藩
1603年:江戸幕府創立
1615年:大阪夏の陣
1697年:関長治が新見藩が立藩
1867年:大政奉還
1868年:明治維新政府
1871年:廃藩置県(弥三郎さん)
1889年:明治立憲体制の成立(友次郎さん・いしさん)
1914年:第一次世界大戦(勝次郎さん・ツネさん)
1939年:第二次世界大戦(与一さん・貴美子さん)

返信:【Re_地名改称の謎ー吉野村から高瀬村の場合ー】

随筆の件、いいね。松田氏を追うのは、視点が変わるのでいいと思います!楽しみです。

出雲松田氏の謎は、尼子氏の謎につながるね。尼子政久は文才があったと記載があり、なんだか嬉しくなった。

松田誠保は尼子政久の子である、尼子晴久の家来だったみたいだけど、妻は、尼子政久の娘、もしくは姉とも記載があるので正確な情報がなくいまのところ不明確だ。

上月城の戦いについては、面白い記述をみつけたよ。

(※参考資料「謎の枝廣城考」)

「備後太平記」:沼隈郡輛津軍勢猿楽能之事そこには天正六年(一五七八)播磨(兵庫県)上月城に尼子の残党を滅ぼした毛利軍将兵が(第二章参照)備後、輛に凱陣、当時織田信長に逐われ、毛利氏を頼って輛に寄寓していた足利義昭は将士慰労の猿楽能を催し、それに培席した百八名の武将の中に・・・・長谷部大蔵左衛門尉元信

この108名のなかに、長谷部元信の名が記載されている。「麒麟がくる」で光秀が鞆の浦で鯛を釣っていたシーン。長谷部元信が公方さまに関わっていることが裏付けされる。

108名の武将のなかには、小早川氏の名前と、井上氏の名前がある。もちろん、小早川秀秋は長谷部元信のことを知っているだろう。1600年関ケ原の戦い後、岡山藩主となった小早川秀秋が帰農する長谷部一族に高瀬の土地を与えたということも考えられる。

すると、また謎が生まれる。上月城の戦いは、出雲松田氏が尼子再興軍として闘っているのはずなので、長谷部氏と出雲松田氏は敵同士になるのだ。

尼子氏から毛利氏に寝返った長谷部氏を尼子の血を受け継ぐ松田氏が許すのだろうか。本当に謎だ。。。もはや、出雲松田氏は長谷部氏なのではないかと妄想してしまう。

1511年、船岡山の戦いには、尼子氏と長谷部氏が共闘している。この頃にはまだ、出雲松田氏はいない。応仁の乱では長谷部氏と松田氏が共闘している。長谷部氏の娘が松田氏に嫁ぎ松田誠保の系列につながっているのだろうか。

「松田家の歴史」は相模松田家 22 代 松田邦義さんがまとめたようだ。簡略版もネットにあがっていたので添付する。

(※参考資料「松田家の歴史簡略版」)


<<<次回のメール【29日目】松田家の歴史

前回の話【より道-9】神郷町大字高瀬>>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?