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【29日目】松田家の歴史

ご隠居からのメール:【松田家の歴史】

 「松田家の歴史」は相模松田家 22 代 松田邦義さんがまとめた資料の由、参考にはするが、一級資料としては扱えない。「備後太平記」のような軍記も同様。自分の一族の歴史を書くと、どうしても身びいきの記述になりがちだ。

 それでも、松田誠保と長谷部元信が戦国時代における両氏のキーパーソンであることはまちがいない。あるときは敵、あるときは味方になって同じ時代を生きたのだろう。結局は、両者とも敗者、落人になって歴史の片隅に埋もれるが、その子孫はなんとか生き延びている。

 われわれが尼子の落人の末であることは、誇りにしていいことだと思う。ただ気をつけなければならないのは家柄自慢になりがちなことだ。徹さんに「尼子の落人」「新見太平記」を読んでもらったとき、そんな指摘を受けたことを思い出した。作者にはそのつもりはなくても、家柄自慢をしていると読者に受けとめられる可能性は大いにあり得る。

 1555年に厳島の戦いで活躍した元信が、1578年の上月城に従軍したり、その後、備後鞆で足利義昭のもとに参集する108人に加わるかどうか。元信はそれほど長生きをしただろうか。謎は謎をよぶ。


返信:【Re_松田家の歴史】

今日の歴史散歩はかなり面白いところまでいきついた。お父さんの随筆に役立つはず。

① 上月城の戦いを調べていたら以下の一文を見つけた
生存した尼子再興軍の残党勢力は、尼子氏庶流亀井氏の亀井茲矩に率いられる形となり、本能寺の変後も秀吉配下にて鳥取城攻略・朝鮮出兵参陣と転戦を重ね、因幡国鹿野・転封を経て石見国津和野を拝領、津和野藩(四万三千石)として幕末まで続いた。

(※参考資料:「上月城の戦いーWikipediaー」)


② 亀井茲矩を調べてみた
・亀井茲矩は尼子再興軍
・母は多胡辰敬の娘
⇒多胡辰敬の姉妹は尼子国久の正室
⇒尼子国久の兄弟は尼子政久
⇒尼子政久の娘は松田満久の妻(尼子晴久の姉)
⇒松田満久の息子は松田誠保
・上月城の戦いは羽柴勢に加わっていたため難を逃れた
・その後、日野之房など尼子旧臣を束ねる立場となった
・山中鹿之助の正室や、尼子残党らを大切にしたとも伝わる
・3万8千石の鹿野藩城主となる
・1595年西伯耆の日野の山で銀山を発見


③ 三度「伯耆日野」がでてきたので銀山をしらべる
・大倉山の南西山麓に存在した“日野銀山”。日南町内では“石見銀山”と呼ばれている
・日南町の旧名は福栄村

(※参考資料:「日南町図書館」)


【まとめ】
まず、亀井氏は尼子氏を通じて出雲松田氏の遠縁となる。そして、見田氏や大原氏は松田氏の末裔のため、亀井氏に助けられながら生き延びてきたことが推測できた。ちなみに、亀井氏の子孫は亀井静香。血がつながっている可能性がある(笑)

尼子氏家臣は尼子氏と血がつながっているようだ。米原氏も尼子氏と血がつながっている可能性がでてきた。もっというと、米原氏と松田氏との血縁関係もあり得る。お父さんの吉野郷⇒高瀬説、あながち間違いではないかもね。

ちなみに、大倉山もWikipediaで調べたら鬼の伝説が記載されていた元信が通った大倉山のそばを通ったのは、高瀬村側だったのか、それとも福栄村側だったのか。

(※参考資料:「大倉山 (鳥取県)」)


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