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【30日目】敗軍の将

ご隠居からのメール:【敗軍の将】

 亀井茲矩は、山中鹿之助と行動をともにしていたら、上月城かどこかで死んでいただろう。たまたま秀吉と行動をともにしていたために運がひらけた。人生にはそんな運不運の分かれ目があるもんだね。問題は肝心な時に、誰とともに行動するかだ、

 元信が大倉山に登ったとしたら、通ったのは福栄村からだと思うが、そもそも元信が上下の翁山城からわざわざ大倉山までやってきたというのは単なる言い伝えであって。史実ではない。高瀬から翁山城までは車でもずいぶん長時間を要した。

 結局、長谷部元信も松田誠保も落人であり、敗軍の将だ。それでも両者のDNAを受け継いだ子孫が何とかしぶとく生き延びている事実の意味を考えよう。

 伝蔵さんは、尼子の落人の言い伝えから、戦で勝敗にこだわることの空しさに気がついたのではないかと思う。

返信:【Re_敗軍の将】

【長谷部氏】
やはり、長谷部氏は関ケ原の敗戦で、毛利が減封されるときに新領国へついていくのを諦めて帰農したのだろう。(一族四散。萩へ行ったり、上下に残るものもいた)

岡山藩主は、小早川秀明。小早川家や新見家と親交のあった長谷部氏は、領主と特別の関係があって、平安時代から由緒ある「高瀬」や「西谷」の土地をもらい普通の農家より上位である豪農となったのだろうか。

(参考資料:長州藩祖・毛利輝元)


【松田氏】
松田誠保は、上月城の戦い後、農に下ったか、赤穴氏の客人として迎え入れられたなどいわれているが、亀井氏と連携をとりながら、毛利打倒(お家復興)の機会を伺っていたのではないだろうか。

吉野村を高瀬村に変えたのは、尼子遺臣がひそかに毛利打倒(お家復興)を掲げ、尼子時代の城の配置と同様の配置に尼子10勇士が、各地に密かに潜んだ。(亀井家には米原氏や山中氏、日野氏等一族も頼ったと言われている)

例えば亀井氏の鹿野城を白鹿城に例え松田氏が高瀬をつくる高瀬の東側にも遺臣が潜み月山冨田城を連想される名の村をつくっているかもしれない。

どちらにしても、1578年から1600年の22年の間に吉野村に松田氏が移住し自身の影響力を発揮して吉野村を高瀬村に変えた可能性も考えられる。


【1600年以降】
長谷部氏が合流し世代も代わる。互いに先祖の話しをしたところ松田氏と意気投合し親族関係となる。松田氏は、亀井氏を頼った遺臣たちと婚姻関係を結び、一族を徐々に広めていく。やがて大原氏を高瀬三室(みむろ)に呼んだ。

すると、1600年〜友次郎さんの約250年間の間で井上氏と婚姻関係がなければ、長谷部一族のDNAは潰えているかもしれない。

姓は長谷部・血は尼子かな


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