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■【より道‐66】戦乱の世に至るまでの日本史_「観応の擾乱」実子と養子と腹違い

後醍醐天皇の「建武の新政」は、公家への優遇、武家への冷遇をきっかけに、わずか三年で終焉をむかえましたが、室町幕府は、武士の功績と国内の政事まつりごとに対する思想の違いから、内輪もめがはじまりました。

あれだけ仲の良かった、足利尊氏たかうじと足利直義ただよしの兄弟でさえも、考えの違いから対立が生まれてしまうわけです。

それは、本人同士の話し合いですめばいいのですが、それぞれには、それぞれの派閥を支える武士たちもいるわけです。こうなると、「ホンネ」とは別に、お互いの進みは止まらなくなるのです。

国と国の戦争もそうだとおもいます。トップがいなくなればよいという話ではありません。互いにわかり合えることはありません。武力で屈服させるか、話し合いの場を設けて落としどころをつくるか。

そんな争事は、ファミリーヒストリーのなかで数多とあるわけです。これは、生きるうえで、重要なポイントになってくると思います。


■足方直義の逆襲

高師直こうもろなおはじめ、御家人ごけにんたちに武装蜂起された足利直義は、政務の職を離れ、仏の道へ進むことになりました。また、鎌倉を統治していた、足利尊氏の息子、足利義詮よしあきらが都入りすると、足利直義の代わりに、政務を任されることになりました。

しかし、この出来事に納得できない男が立ち上がります。それは、足利尊氏の腹違いの息子、足利直冬ただふゆです。

足利直冬は、足利直義の養子となり長門探題ながとたんだいに命じられ、備後、備中、安芸、周防、長門、出雲、因幡など西国を管領していました。これは、対モンゴル襲来に備えて設置された職といわれていますが、実際は、高師直軍への対策だったといわれています。

養父、足利直義の失脚の知らせが届くと、足利直冬は、山陰地方の兵士を集め、上洛しようと試みますが、これは、播磨国の赤松則村あかまつのりむらによって阻止されました。そして、足利直冬は、都へ戻るように厳命されますが、それを無視して備後の周辺武士たちに恩賞を与えながらも兵を集めだしたのです。

これは、腹違いの弟、足利義詮が上京して国を治める仕事をするのに、自分は、長門探題の職を失われる。この不遇の対応に我慢がならなかったようです。

その様子を知った、足利尊氏は、高師直に討伐命令を下すと、足利直冬は、九州へ逃げ延び、今度は、九州で兵を集めだし、勢力を拡大していきました。

さらには、南朝とまで手を組むと、同タイミングで京の都を逃げ出した足利直義とその派閥である、畠山氏、桃井氏、斯波氏、細川氏、山名氏などが発起して、足利尊氏、高師直軍と対立します。

すると、足利尊氏、高師直は追い詰められて敗北を喫してしまいました。

足利直義の意向は、あくまで高師直の失脚でした。高師直さえいなくなれば、兄の足利尊氏には、引き続き、征夷大将軍の職を全うしてもらいたいと願っています。そこで、話し合いの結果、高師直が出家することで和睦が成立しました。

しかしここで再び事件が起こります。京の都へ帰る道中、高師直は、兄や息子など一族と共に殺害されてしまったのです。

これは、高兄弟との政争に敗れて父を暗殺された上杉氏の復讐だったといわれています。上杉氏は、足利尊氏の母方の一族ですし、高師直の兄は、上杉氏から、妻をめとっていますので、親族同士で権力争いや殺し合いをしていたのですね。


とはいえ、長年の政敵を排除した足利直義は足利義詮の補佐として政務に復帰。足利直冬は九州探題に命じられました。

我が家の家系図には、1333年(元弘三年)「船上山の戦」で討死した長谷部信豊さんの孫に、長谷部雅信さんという方がいらして、隣に「長谷部長門守」と記されています。

これまた、フィクションの話ではありますが、立地的にも長谷部氏は、足利直冬に従属していた可能性があります。塩冶氏もそうでしたが、北朝に属しながらも、南朝を支援していた。南北朝問題で生き残るために、両統にうまいこと、加担していたのかもしれません。


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