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【88日目】ふゆ物語

ご隠居からのメール:【ふゆ物語】

いくらなんでも五歳の娘が出産するはずがないと思って、信谷家の戸籍をじっくり点検した。字がかすれていて正しい読み方がわかりにくいね。

肝心のふゆさんの生年月日は「安政六年六月八日」と以前に書いたが、これでは「元治元年三月八日」に安次郎さんを生んだことになる。そんなはずはないと思った。安政六年は誤読で、正しくは文政十年ではなかろうか。それなら西暦で1827年で、元治元年(1860年)には三十三歳だ。

当時にしては高齢出産だが、それならあり得ると思う。この推理の通りだとすると、ふゆさんの父親は弥左衛門さんではなく、與左衞門さんだ。

與左衞門さんはなかなかの人物で、與一さんはその再来を願って、一字を貰ったのだろう。信谷家戸籍は「本村長谷部與左衞門三女」から「入籍」までの七字が読めない。なんとか解読できないか。

『日野郡史』に載っている長谷部家文書による家系図に三浦義澄や三浦義明の名前があることは知っている。西谷氏や新見氏などの家系図も同様だ。先祖はみんな桓武天皇か清和天皇になるが、古事記によれば、もともと長谷部氏は雄略天皇によって定められたことになっているから、平家や源家よりも古い。もちろん尼子や毛利よりも古い家柄だ。


返信:【Re_ふゆ物語】

すると與左衛門さんが、弥左衛門さんとふゆさんに相続のため、土地を分けて信谷家を分家したのかな。與左衛門さんは、長谷部家存続の危機と考え信谷家をつくったのだろうか。それほど弥左衛門さんと、なかさん、左トさんの三角関係が悩みのたねだったのかもしれないな。

しかも、弥左衛門さんは実の息子・友次郎さんではなく、左トさんの弟、喜代太郎さんを養子にして相続してしまうほど、、與左衛門さんが、苗字帯刀を許された時代の「ふゆ物語」もやはり気になる。

喜代太郎さんは、日清戦争が起きる前に亡くなっているので軍人ではなさそうだね。それとも、戊辰戦争や西南戦争に参加したのか。亀三おじさんが、「喜代三郎100年祭」を行うくらいの人だから、英霊のような気もする。

歴史を学ぶなかで、雄略天皇くらいまでの時代になると、いままで以上に文字や名前がわからないので、勉強する気にならなかったけど、いつか向きあわないといけないな。少なくとも、西暦450年くらいから信連の1200年頃までは、天皇や偉い人に仕えたりして、応仁の乱で衰退し戦国時代や関ヶ原くらいから疎遠になったんだね。


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