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【149日目】なぜ「尼子の落人」か

ご隠居からのメール:【なぜ「尼子の落人」か】

>毛利元就は、尼子から寝返った山名氏に人質を出すように要求して
>いたらしい。また、寝返った国人たちを戦の最前線に配置したとも
>言われているーーこれらの問題は精査、検証が必要だと思う。

「尼子の落人」執筆に際しては上下町の長秀雄さんから情報を貰っている。オレ以外にも長谷部氏の先祖に関する問い合わせが何件かあり、その都度、家紋を持ち出して対応されたようだ。

即ち、能登の長氏、上下の長氏、高瀬の長谷部氏は、家紋が似ているけれども細部が違うのだ。確認はしていないけれども、おそらく日野の長谷部氏の家紋も違うだろう。

家紋はたしかに昔は家柄の格を示す証拠とみなされていたと思うが、系図と同じで科学的エビデンス(証拠)にはならない。

次の随筆のタイトルは、「尼子の落人」後日譚を予定していたが、「尼子の落人」再考、のほうがいいかな?

御先祖はなぜ長谷部氏が「尼子の落人」という言い伝えを残したのか、そして、その御先祖は誰か(馬之助か、熊之助か、與左衞門か)、また、なぜ「山名の落人」「京極の落人」「日野の落人」「毛利の牢人」「小早川の牢人」「福島の落人」などではいけないのかという視点から書きたいと思う。

家系図に科学的エビデンスがとぼしいのは、母方の系図や直系以外のDNA継承者の情報が伝わっていないことだ。現実には日野富子のように将軍家の人事に影響力をふるった女性がいるし、富子の他にも今参局いままいりのつぼねのように妾で人事に影響力をふるった女性もいるだろう。長谷部氏の御先祖にも権力を握った女性はいたかもしれない。


返信:【Re_なぜ「尼子の落人」か】

タイトルは、「尼子の落人」後日譚がいいよ。ただ、その謎を與一さんや、亀三さんは知っていたはずなのに、教えてもらえなかったのは残念だったね。

もう一度ゼロベースで考えると我々が「尼子の落人」と語る資格を得るには尼子の血を引き、上月城の戦いで尼子再興軍に参戦した子孫なのか、もしくは、亀井茲矩のように、尼子家臣として秀吉に仕え存命した一族かでなければならない。

やはり、最後まで毛利氏の家臣だった矢野庄の長氏が「尼子の落人」と語るには違和感がある。我々が「尼子の落人」と語る資格を得るには、

■ 語る資格
① 尼子再興軍に参戦した長谷部氏
② 尼子家臣として秀吉に仕えた長谷部氏
③ 母方の子孫が尼子氏
④ 尼子の落人が長谷部氏の養子になる

ポイントとすると、長谷部氏は、山名氏や京極氏と親族関係で元々は、尼子氏の家臣だった。しかし、山名氏と長谷部氏は尼子氏を裏切り毛利氏に寝返った。「厳島の戦い」など前線で戦い武功をあげるが、毛利氏は旧尼子家臣たちを冷遇した。そして、山名氏は尼子再興軍に呼応した。

山名氏や長谷部氏、そして備後の国衆が尼子氏を裏切った理由。そして、山名氏が尼子再興軍に呼応した理由にヒントがあるはずだ。

日野山名氏は、備後の国衆と揉めて尼子再興軍に呼応したという記述をみたこともあるから、血の繋がっている日野山名氏とともに尼子再興軍に呼応した長谷部氏がいてもおかしくないと思う。

そのときの戦果で丑之助は、秀吉から西谷の地を賜った。当時、豊臣秀吉と毛利元就がさだめた境界線は、高梁川といわれている。

兄の馬之助は、日野に住む山名氏の子孫と新見氏に話を取り次ぎ、長谷部信連が過ごした日野に隣接する山々の立木権を得て高瀬に住み着いたのではないかね。

長谷部元信が亡くなったタイミングで尼子再興軍が発起し、長谷部一族が分断した可能性もあるな。


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