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【148日目】六分一殿

ご隠居からのメール:【六分一殿】

相続というのは戦争につながるほどの大きな問題なんだな

ーー応仁の乱がまさにそれだね。畠山はたけやま斯波しば、細川、山名などの有力大名はみんな親子喧嘩、兄弟喧嘩にまきこまれた。中世は兄弟での分割相続がふつうだったそうだが、土地には限りがあり、分割に分割を続ければ、財産は細ってしまう。

六分一殿といわれた山名氏といえども、六人の子供がいれば、三十六分の一殿になる。応仁の乱では山名宗全の次男・是豊これとよは細川方に加担したそうだ。尼子氏も経久つねひさの三男・興久おきひさが父親に対して反抗している。

その点、毛利元就は三本の矢で兄弟の結束をかためたのが成功した。しかし、天下取りのレースでは準決勝までは勝ち上がったが、決勝の関ヶ原は黒星で、結果は中国地方全土から防長二国に削減された。これでは長谷部氏や新見にいみ氏はおこぼれにあずかるわけにいかない。

一方、勝ち組の秀吉も戦功をあげた大名たちに分け与える土地の確保が国内では難しいから、大義名分がないのに、朝鮮に侵略したのだろう。その侵略戦争が挫折したため、国内は土地不足と大量の牢人の発生で治安が悪くなったので、徳川幕府は大名の取り潰し作戦を強行した。

そのように大きな視点からとらえると、長(長谷部)氏や新見氏の脱落は必然(=宿命)だね。

「姓」「苗字」「諱」「通称」は時代によって変化すること、および、1875年(明治七年)の「平民苗字必称義務令」もいい着眼だ。後者で長谷部氏を名乗る平民も出現したと推察されるが、雄略天皇から貰った姓は畏れ多くて、誰でもが名乗るわけにもいかなかったのではないか。


返信:【Re_六分一殿】

「平民苗字必称義務」で長谷部の苗字を選んだ平民もいるだろうが、一般的には、先祖伝来の苗字をつけたと言われてるみたいだね。面白いのは与謝野氏。本来であれば細川氏の苗字だったのを変更したらしい。センスのある苗字は、大作家をうみだすことになった。

上月城こうづきじょうの戦いのあと、長谷部の一族はどのくらいいたのだろう。随筆「尼子の落人」では、翁山おきなやまの麓に長谷部氏の子孫がいると記載があった。日野にある厳島神社の住職も長谷部氏。翁山から、毛利輝元について萩に行き、長州藩士になった長谷部氏。長丑之助は、西谷と苗字を変え、馬之助は、高瀬に住み着いた。

鎌倉時代から室町時代まで、分割相続をしてきたのであれば、それなりに長谷部一族がいてもおかしくない。兄弟で領地を分け名を変えながら、一族を繁栄させていったはずだ。実際に能登の長一族は、室町時代の末期までその地を守り、一時は滅亡するまで追い詰められたが、前田家に助けられた。

一方、矢野庄の長谷部氏はどうなんだろう。直系相続になってからは、嫡子がその土地を引き継いできたはずだから、それが長谷部元信だね。

元信の周りにも一族がいたとすると、毛利氏のように養子に出して名前を変えた一族がいるかもしれないね。しかし長谷部氏を名乗る人はごくわずかだ。このあたりは、もう少し想像してみたいと思う。

個人的には、家系図にある長野氏が、元信の兄弟もしくは二男。または、側室の子で、長野氏の養子となったが、関ケ原敗戦後、その息子である馬之助が長谷部を名乗ったのではないかと思っている。直系は、矢野庄に残るか、萩についていったのだろうか。

それよりも、わが家に云い伝えられている「尼子の落人」と称する系統はどれか。それが、山名氏系なのか、松田氏系なのかはわからない。


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