【150日目】語る資格
ご隠居からのメール: 【語る資格】
では、次の随筆のタイトルは、「尼子の落人」後日譚、と決めることにしよう。
「語る資格」はあるような気がする。
① 尼子再興軍に参戦した長谷部氏
② 尼子家臣として秀吉に仕えた長谷部氏
③ 母方(津弥)の先祖が尼子氏
④ 尼子の落人が長谷部氏の養子になる
⑤ 長谷部が尼子の落人という言い伝えがある
⑥ 随筆「尼子の落人」の内容が先祖自慢になっているという批判を浴びた
五番目と六番目を付け加えたのは、あらためて「尼子の落人」を名乗り、その子孫として生きる姿勢を後世に伝えることに意義を認めるからだ。(先祖自慢の随筆を書き残したと批判されっぱなしでは後味が悪い。いやみやくさみをできるだけ消去し、わかりやすく大義名分を取り戻すことを目指したい。
>ポイントとすると長谷部氏は、山名氏や京極氏と親族関係で元々は
>尼子氏の家臣だった。しかし、山名氏と長谷部氏は尼子氏を裏切り
>毛利氏に寝返った。「厳島の戦い」など前線で戦い武功をあげるが、
>毛利氏は旧尼子家臣たちを冷遇した。そして、山名氏は尼子再興軍
>に呼応した。
ーー松田氏は尼子氏と親族関係であり、山名氏が寝返れば、長谷部氏も寝返る。毛利氏は備後国人十八人衆を利用するだけ利用し、山名氏は親子喧嘩、兄弟喧嘩で自滅。尼子氏も親子喧嘩で衰亡へ向かった。
>やはり、最後まで毛利氏の家臣だった矢野庄の長氏が「尼子の落人」と語
>るには違和感がある。
そうだね。やはり、備中の山奥に引きこもった一族だけが「尼子の落人」だろう。そのように対外的に称することによって、プライドを守るだけではなく、実利を得ることもあったかもしれない。
応仁の乱が起こった時代、京極氏は伯耆の守護、尼子氏は守護代だったが、いつのまにか、地位が逆転した。山名氏が伯耆の守護だった時期もある。同時に因幡、出雲、備後、備前、美作。の守護だったこともあるが、備中の守護だったことはない。備中の守護は細川氏、領家は東寺。
伯耆の長谷部氏は信連の子孫、備後の長氏は元信の子孫で、両系統はまじわっているかもしれないが、最後は敵対的な関係になっているようだ。ただし、婚姻による両系統の最接近の動きもみられる。
返信:【Re_語る資格】
正直、矢野庄の長氏も直系ではないと思っている。「家系図」には元信の息子、吉連(良連)に子供が生まれず家督は不続と記載があるからだ。すると、本来ならお家取り潰しになるのだろうか。もちろん、叔父や兄弟等の一族はいただだろうから誰かが当主でいたかもしれないが、関ヶ原で転封となったのであれば、殿さまの家族がその土地でそのまま帰農するというのは、無理があるのではないかね。
尼子勝久と山中鹿之介は、京都に上洛している織田信長に助力を求め、織田信長もこれを認めた。織田信長の援助を得た尼子勝久と山中鹿之介は、まずはじめに、山名豊国を使い山名家の旧臣を集め、山名家から毛利家に寝返り鳥取城主となった武田高信を鳥取城から追いやったそうだ。
長谷部元信が亡くなり、吉連(良連)が家督となったタイミングと、尼子再興軍がうまれたタイミングが合えば、なくはない展開だと思う。絶対君主の元信が亡くなれば、一族の意見は割れるだろう。毛利元就の冷遇に怒る者もいれば、山名氏や尼子氏の親族の願いに応えようと考える者もでてきたと思う。