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【33日目】牛之助

ご隠居からのメール:【牛之助】

長牛之介が上月城の戦いで戦功をあげ、豊臣秀吉から貰ったという感状の写しを新見の友人に見せてもらったことがあるが、上月城の戦で手柄をたてたって、負けては意味がない。おそらく後世の誰かがつくったのだろう。

同様に家系図にも誰かが手を加えている可能性が大きい。たしか元信は30代後半で死んだとどこかに記されていた。上月城の戦いまで生きていたとは思えない。おそらく牛之介の祖父か曾祖父だろう。

元信、誠保までさかのぼると26万系統だねーー当然、DNAの変異種も出てくる。松田伝蔵さんや岡村素さんは失礼になるかもしれないが、ご先祖の変異種ではないかと思う。

戦国時代には親子や兄弟も敵味方に分かれて戦った実例はざらにある。


返信:【Re_牛之助】

上月城の戦いは、1578年。家系図に記載されている内容を読むと(寛永2年)1626年と書いてある。さらに太閤殿下豊臣秀吉から「西谷邑賜知行ス」と書いてあるが、時代が合わな過ぎだね。1626年はすでに徳川政権の時代だからね。

それでも、まぁ、元信が活躍した1555年〜関ケ原までの間に何かの武功で毛利か秀吉から土地をもらったと考えるのがスムーズだとは思う。

尼子経久と毛利元就の関係を調べても面白い。元就は若いころから頭角を現し経久は元就に危機を感じていたそうだ。その後、毛利の血筋に尼子の血を入れようと画策されたため離反、大内氏についたそうだ。更に、経久は普段家来たちに大盤振る舞いで褒美をたくさんあげていたそうだが、元就にだけは、厳しく褒美をあげなかたそうだ。

なので、元就は、尼子から寝返った武将たちにも厳しく接し尼子氏から寝返った、長谷部氏や新見氏も最前線におかれたのだろう。だからこそ、萩転封の際に毛利氏へついていかなかったというのは、考えられる。


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