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■【より道‐118】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_塩冶興久という男

いつの頃か、尼子経久つねひさの活躍は、西の覇者、大内義興よしおきを凌駕するほどになったようです。

その背景には、同族で近江国守護の六角定頼さだよりと通じていたことから、十二代将軍・足利義晴よしはるとともに、再び、足利一族と佐々木一族の世を築こうというものだったように思えます。

しかし、中央では、いまだに、足利将軍家を巻き込んだ、細川氏のお家騒動がおさまっていません。細川高国たかくにに殺害された、細川澄元すみもとの息子、細川晴元はるもとが、三好一族を引き連れて攻勢にでているようです。

このあたりの室町幕府の混乱が、戦国時代の根本的な理由なのでしょうけど、現代を生きるほとんどの日本人が知らない出来事なのだろうなと思っています。

それを少しずつでも、じぶんなりに学んでいき、「何故じぶんが生まれたのか」ということを知りたいです。そのためにも、戦国期の尼子一族の物語を引き続き記していきたいと思います。


■ 大内氏との対立

安芸国西条にある「鏡山城の戦い」で、尼子氏と大内氏の対立が明確になり、両陣営は、この戦を機会に大軍を出陣させて一進一退の小競り合いが始まりました。

そんななか、「鏡山城の戦い」で、調略のうえ武功をあげた毛利元就もとなりは、恩賞を与えない尼子経久つねひさを見限り、大内義興よしおきの配下につくことを決断します。

そして、大内氏は石見国から大軍を配置して反撃の体制を整えたのですが、ここで、本領の周防にチカラを注がなければならない出来事が起こります。それは、九州で、少弐・大友軍が大内氏に対して挙兵したのです。

これで、大内氏は西にも目を向ければいけません。さらには、天下人にまでのぼりつめた、当主・大内義興よしおきが病に倒れ亡くなってしまうという出来事が起きまてしまいました。

つまり、尼子経久つねひさにとって、最大の好機が訪れるのですが、このタイミングで予期せぬことが起こります。それは、尼子経久つねひさの三男・塩冶興久おきひさが謀反を起こすという、なんとも悲運な出来事が起きたのです。


■塩冶興久

塩冶氏は、もともと、尼子氏と同じ佐々木一族でした。南北朝の動乱で、塩冶高貞たかさだが山名時氏ときうじに討ち取られて嫡流は没落しましたが、塩冶高貞たかさだの弟、塩冶時綱ときつなが宗家を継ぎ、京極氏や山名氏の家臣として、なんとか生き延びてきました。

そして、「応仁の乱」が終息すると、尼子経久つねひさが、室町幕府に反抗して、出雲守護代を追放されてしまいます。そして、守護代を引き継いだのが、塩冶時綱ときつなの子孫、塩冶連清つらきよになります。

つまり、尼子経久つねひさは、初代・尼子の落人となりますが、その後、月山富田城を奪還した際に討ち取った人物、塩冶氏の養子に、自らの子をおくりこんだわけです。

その方法は、1518年(永正十六年)塩冶氏の家中でお家騒動が起きると、尼子経久つねひさが、介入してきて、当主の塩冶貞慶さだよしを追放して、三男の興久を無理やり養子にさせることで家督を継がせたのでした。

この方法は、毛利元就もとなりによる小早川家や吉川家の乗っ取りの手本になったと言われています。


■ 乱の理由

「塩冶興久おきひさの乱」が起きた理由は、尼子経久つねひさが塩冶氏の家督を強引に乗っ取り西出雲の権益を奪いとったからです。それに怒った、出雲大社はじめ、西出雲の国人たちが、尼子氏に反抗しだし、当主の塩冶興久おきひさも配下の意見を抑えきれなくなったからです。

考えてみると、塩冶一族は、鎌倉時代から出雲国を領しており、その権益は、出雲大社をはじめ三沢氏、多賀氏など、京極氏と親交の深かった国人たちです。長年守ってきた塩冶氏の権益を尼子氏にとられたことで反対勢力がうまれたのでしょう。

また、塩冶興久おきひさの妻は、備後の有力国人の山内氏です。山内氏も尼子経久つねひさの勢力に屈しており、快く思っていませんでした。

そして、極めつけが、大内氏が西国に目を向けなければいけないということ、塩冶興久おきひさに偏諱を与えてくれた大内義興よしおきが亡くなってしまうと、大内氏の勢力は、なんとか、尼子氏のなかで、混乱が起きないかと期待していたはずです。


■ 親子ケンカ

1530年(享禄三年)「塩冶興久おきひさの乱」が起きます。そのキッカケは、塩冶興久おきひさが、尼子経久つねひさの重臣、亀井秀綱ひでつなを通じて、「出雲国大原郡の領地七百貫がほしい」と願い出たことからはじまります。

尼子経久つねひさは、「他の地なら千貫与える」と亀井秀綱ひでつなを通じて返答したことに塩冶興久おきひさは、「これは、亀井秀綱ひでつなの讒言だ。実子よりも重臣の言うことを聞き入れるのか」と大いに怒り戦に発展していったそうです。

正直、戦の理由などは、どうでもよかったのでしょうね。

この戦いで、大原郡の国人たちの多くは、塩冶興久おきひさにつきますが、塩冶興久おきひさが援軍をお願いした、大内義隆よしたかは、尼子経久つねひさを支援し、大軍をもって鎮圧されたそうです。大内氏へのあてが外れてしまいましたね。

その後、塩冶興久おきひさは善戦するも、妻の実家である山内直通なおみちを頼って備後国へと逃れたそうです。

すると、尼子経久つねひさは、舅の山内直通なおみちに、塩冶興久おきひさを差し出すよう要請すると1534年(天文3年)に塩冶興久おきひさは腹を切り、その首が尼子経久つねひさに届けられたと言います。

尼子経久つねひさは、我が子の首をみて、腰を抜かしたと言います。この親子ケンカの真意は、どこにあったのでしょうね。



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