見出し画像

【354日目】:高瀬ゴッポーか石ゴッポーか

ご隠居からのメール:【高瀬ゴッポーか石ゴッポーか】

私は子供の頃、高瀬ゴッポーと呼ばれた。隣村まで足を伸ばして遊びに行くと、「高瀬ゴッポーが来たぞ。やーい、ダラズゴッポーやーい」といって、からかわれたのである。ダラズというのはのろまのバカという意味の方言。つまり、高瀬ゴッポーは蔑称、差別用語である。

ゴッポーは、高瀬ゴッポーと石ゴッポーの二種類が村の小川に生息していた。石ゴッポーはハゼの一種で、郷愁を誘う川魚だが、高瀬ゴッポー、別名ダラズゴッポーは頭でっかちで横幅があり、動作が鈍重、不器用、食い意地が張っていて、目の前に餌をちらつかせるとすぐ食いついてくる。やはりハゼの一種だが、地方によってはドンコと呼ばれている。郷愁を誘われるような魚ではない。

高瀬ゴッポーか石ゴッポーか。趣味からいえば清流に棲む可憐な石ゴッポーをとりたいが、私の実体、本質、自己同一性(アイデンティティ)はどうみても泥臭い高瀬ゴッポーである。これは宿命だから、今さら如何ともしがたい。


返信:【Re_高瀬ゴッポーか石ゴッポーか】

幼いころ、高瀬に帰省したときの楽しみのひとつに、川釣りがあった。竹藪の竹をお祖父ちゃんがナタで切ってくれて、枝を削ぎ落とし糸と針をつける。田んぼの土を掘ると、すぐにでっかいミミズがでてくるから、小さく切断して、母家の裏にある溜池に糸を垂らす。

水面をじっと見つめていると、ほどなく魚が釣れる。幼いながらに魚がよく釣れたと思うけど、あれが、ゴッポーだったのかな。釣った魚は、どうしていたのだろう。覚えていないな。

お父さんたちの夜の宴のツマミになったのだろうか。あの川魚をじぶんで食べた記憶はない。

こころの傷は、83歳になっても完治しないものだね。歳を重ねるほど、こころの傷も増えていくものなのかな。ケガなどの傷と違って、こころの傷は目に見えないし、お医者さんが治してくれるものでもないから、一度傷ついたり、壊れたりしたものは、自分自身で治療するしかない。それを助けてくれるのが、神や仏への信仰というところだろう。

高瀬ゴッポーの息子も高瀬ゴッポーだよ。


<<<次回の話【より道‐118】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_塩冶興久という男

前回のメール【353日目】:妙見神社か八幡神社か>>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?