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屋久島でのさようなら(瞑想に出会ったきっかけ-part2.)
当時付き合っていたdanna君と大自然を満期するために向かった屋久島だったのだけど、少しだけ胸騒ぎがしていた。屋久島に行く一週間くらい前から、妊娠の、無敵な愛に包まれたようなふわあっとした感覚をあまり感じられなくなっていたからだ。
あんなに毎日何かに感動してウルウルしててもしょうがないし、きっと興奮状態だった小さな命もわたしの体も少し落ち着いてきたんだろうな、と思うことにした。
だけど、島に向かうフェリーの中で、おなかがチクッっとする。顔色も悪い。島に着き、宿に落ち着いたら、なんと出血していた。
怖くなって、最悪のことが頭によぎった。いつでもポジティブな方を考えるようにしていたわたしは、冷たい予感を必死に遮り、きっと何か他のトラブルだよ!大丈夫!と言い聞かせて、とりあえず安心するために島の産婦人科に駆け込んだ。
待合のロビーでは、お母さんが小さな子供たちに『いぬのおまわりさん』を歌ってあげていた。
「まいごのまいごの子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか♪」その慈愛たっぷりのやさしい歌声が、ネガティブにならないよう必死だったわたしの頑なさに沁みて沁みて、とうとう涙が溢れてしまった。
順番が来て、診察室で見たエコーはしぃんと静まり返り、子宮はにこりともせず悲しみと冷たさを湛えていた。稽留流産というやつだった。妊婦の10〜15%に起こる流産で、妊娠の行動・疲れなどに起因するものではないのでご自分を責める必要はありませんからね、と言われた。
頭の中が真っ白、完全なるホワイトアウト。
着々と手術の準備が進む。
全身麻酔で、再度視界と意識がホワイトアウト。
それからの記憶はあまりなく、気づけばdanna君と手を繋ぎ、美しすぎる夕焼けの宮之浦海岸に腰を下ろし嗚咽していた。
全く気持ちの準備が出来ていなかったというか、準備しておけば、多少なりのクッションになったかもしれないのを、わたしはそのまま高いビルからコンクリの地面に力いっぱいに叩きつけられた。
どれくらい泣いたかわからない。泣いても泣いても、打ち寄せる波が涙を足してくれて、枯れることを知らない涙がそのまま海に注いで、永遠に循環していくかのようだった。
赤ちゃんが生まれてくることしか考えていなかった。
その命と別れることになってしまった。
このことが、どれだけ自分を悲しみの淵まで連れていくことになるのかも知らず、どれだけまた前向きに受け入れようとポジティブな自分を叩き起こしてみても、気がついたらわたしは悲しみと完全に一体となっていた。
わたしという人は、元々あまり人に悩みを相談することが無く、だいたい自分で、起きたことを捉え直し、整理整頓して自己解決してしまう人だった。
だけど、この悲しみには、どんな手立ても通用せず、だってわたし悲しいんだもん、と堂々と立ちはだかり続けた。
この流産、というあまり経験したくなかったエピソードが起きた約一年前、実はもう一つ、わたしは普通の人なら絶対に経験することの無い事件に巻き込まれていた。
そんなこともあり、消せない、昇華できない記憶と感情を持て余すことになったのだ。
そんな時、わたしの細々としたアンテナに引っかかってきたのが、ヴィパッサナ瞑想だったのだ。今のヒマラヤ瞑想に導かれる礎となった、とってもセンセーショナルで貴重な10日間を京都の丹波でいただいたのだった。
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