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自分有給(1)

「じゃあ、この日にお休みを取るから、よろしくね」
「はい、かしこまりました。」
自分有給の制度ができてから、自分の人生に「メリハリ」ができた。なにせその日だけは自分を「お休み」できるからだ。
その日一日、私は私ではなくなる。渡辺一郎という人生から、一日だけ解き放たれるのだ。
周りの人間は、私のことを渡辺一郎とは認識しない。会社に行ってもビルの受付で止められるし、免許証を出しても、私のことではないから、取り合ってもらえない。
つまり、私という人間がこの地球上からいなくなってしまうのだ。
もちろん、人間を一人消して、また明日から出すなんてことは不可能だ。正確には、「自分に関するすべてのシステム」が停止するのだ。周りの人も、私が渡辺一郎だと思っていても、それをおくびにも出さないようにしている。
ともかく、そんな制度のおかげで、多忙を極める私の生活の中にも、ひとときの安らぎができた。今日一日は、会社からも、部下からも、取引先からも、妻からも、娘からも、世間からも、すべてから解放される。

私はこの日のために郊外の静かな湖のほとりにあるバンガローを予約して、そこで一日過ごすことにした。
いつもは鳴りやまない携帯電話も、この日は絶対に鳴ることが無い。それでも万が一、仕事のことを思い出すのがいやなので、電源ごと切ってしまった。家族にも、明日は自分有給だから、ということと場所だけ伝えた。
携帯電話を放り投げると、私は、自分の思うままに時間を過ごした。昼間から缶ビールを空けたり、湖畔に出て釣りを楽しんだ。夜には焚火をくべながらただひたすら何もな時間を過ごした。
私に必要な時間は、こんな風にゆっくりと流れる時間だったのだ。
夜空に浮かぶ星を眺めながらそう感じて、まだ午後7時だというのに眠気が襲ってきた。明日からまた仕事に戻らなければならないから、早く寝て疲れをとるのも良いかもしれない。
そう思って、その日は早くベッドの中に入った。

(続)


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