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いっしゅうき 2021.02③


2021.02.10 WED
64日目です。昨日(前回のいっしゅうき最終日を見よ)の宣言どおり、キネカ大森の名画座二本立てで観たもう一本の作品『FAKE』についてです。監督は森達也さんです(2016年、日本)。

はい。ついったの投稿からも察せられるとおり、これを書いているのは12日午前1時です。まあこういうこともあるね。日記の定義はひとそれぞれであるということで、ひとつよろしくお願いいたします。
こちらもほんとうにすさまじい作品で、筆者は最初佐村河内さんを疑いながら鑑賞していたはずが、いつの間にか佐村河内さんを糾弾したメディアに怒り狂い、なかば彼の擁護派と化し──たかと思えば、それでもなお拭いきれない彼に対する「疑念」に、信じたひとに裏切られたかのような恐ろしい気持ちになりと、約110分間、情緒がジェットコースターのようでした。ぜひたくさんのひとに観てほしいです。みんなわたしとおんなじ苦しみを味わえばいいんだよ。
またまた本筋に関係のない話をしますが、本編に登場したとある外国人記者さんの、思考を言語化するスキルがすさまじいなと思いました。いったいどんな訓練を積めば、ここまで適切な言葉で脳内を表現できるんだろう……筆者は感情や思考を言語化するのがとてつもなく苦手なので、プロと自分の間にあるとんでもなく高い壁を目の当たりにしたような気がしました。わたしも言語化うまくなりたいな~。神絵師の腕を食べるみたいに、記者さんの脳でも食べればいいんでしょうか。

昨日書いた『虚空門 GATE』と『FAKE』、どちらも「真実」のありようを問うドキュメンタリーであることはもちろん、主人公となる男性と彼に寄り添う妻の存在、そしてかわいい猫、というように、共通点がいくつも見られるのが興味深かったです(佐村河内家の猫さんはほんとうに大切にされていることが伝わってきますし、庄司氏の猫、のみならず動物に対するコミュケーション能力には目を見張るものがあります)。こんなに考え抜かれた二本立てを構成できるんて、映画館のひとはほんとうにすごいと思います。やっぱりプロはすごい。わたしもなにかのプロになれる日が来るんでしょうか。究められるなにかを手に入れてえな。

2021.02.11 THU
65日目です。まえ2日間は「日記とは?」というかんじになってしまいましたが、今日はちゃんと「今日」の時点で書いています! 細かいことを言うとすでに12日午前1時30分なのですがまだ寝てないので11日換算です。所属している同人の編集さんも「ソシャゲの基準ではまだ『今日』なのでセーフです」と筆者の締切破りを許して下さったので、今回も許容範囲です。こんなんだからだめなんだよおまえはよ。

ついったを眺めていたら、昨日投稿した『虚空門 GATE』の感想に、監督さんご本人からリプライをいただいていて我が目を疑いました。こんなことあるんだなあ。嬉しい限りです。光栄です。ついった、というかSNSの恐ろしいところでもあり、醍醐味でもありますね。いやでもほんとうに嬉しいです。インターネットはすごいなあ。

2021.02.12 FRI
66日目です。風呂から出ようとした瞬間、入り口の壁のへりへ予期せぬ渾身の膝蹴りを叩き込んでしまいました。大丈夫かこの痛み。みっつ目の膝爆誕してない? いま確認したら縦ひと筋に黒い痣ができていました。こっから新しい膝生えんのか? 勘弁してくれや。

Netflixオリジナル『事件現場から:セシルホテル失踪事件』を観ました。2月10日から配信が始まったドキュメンタリー番組です。

『虚空門 GATE』や『FAKE』に続き、意図せずドキュメンタリーが連続しましたね。社会派ドキュメンタリー、とってもおもしろくてためになりますし、いろいろなことを考えるきっかけになり非常に勉強になるのですが、ついったなんかのプロフィールにもあるとおり基本的に難しことはなにもわからない人間なので、脳みその疲労が半端じゃないです。明日からはちょっと脳休めをして明るく楽しく適度に血みどろなコンテンツに戻ろうと思います。難しいこと話してる自分はちょっと解釈違いなので。いやていうかそろそろやることやんないとやばいんだよな。今日ずっとゲームしてたもんな。やべえな。


『事件現場から~』に関して、こんな呟きをしました。具体的なエピソードはぜひ本編を観ていただくとして、これはわりと常々感じていることです。

筆者自身小さいころから、怖いもの、生理的嫌悪感を煽るようなもの、暴力的なもの、人倫に悖るような描写のあるもの等々、一般的には眉を顰められるような題材を有するアニメや小説、アート作品が好きで、その世界観に幾度となく救われてきました。もちろん直接的に実在の社会・人物に危害を加えるようなものは決して許されませんし、作品が個人に与える影響についての問題が取り沙汰されていることも理解しているつもりではいます。けれどきっと、多くの人には心のなかに他人に明かせないような暗い願望が多少なりともあって、その気持ちを理解してくれる存在としてこうした虚構は必要なのではないかと思うのです。できることなら自分自身も、こうしたごく個人的な、暗い願望を健康的に消化できる作品を生み出せる存在になりたいと、なんとなく思っていたりします。もちろん現実との距離感については絶対に無視できない問題ですし、虚構だから例外なく正当化されるということは有り得ないと思っているので、そうした題材を取り扱う以上は誰よりも道徳心や倫理観を持たねばならないと自戒しているつもりです。

ただ、ある種過激な虚構を好んで摂取していた我が子を、母親は特に心配していたようでした。ある時期から、犯罪に関わる本を買ったり、暴力的な映画を観たがるわたしを、不安そうな顔で見るようになりました。「そういうのばっかり見て大丈夫?」「そういうのばっかり買うのやめなよ……」と窘められたり、一度だけほんとうに声を荒げて怒られたこともあります。いま考えると実際、怖いものみたさであったり、幼稚な好奇心があったのは間違いないと思います。母がどこまで自分のことを許してくれるのか、ボーダーを測っていた自覚もあります。それに失敗し、声を荒げて怒られたあとは、それまでの露悪的な言動を反省して、かつ母の目に触れないようにコンテンツを楽しむようになりました。

母の心配はあたりまえの反応だったと思います。現在はわたしもそのような題材のコンテンツとの適切な距離感を掴み始め、母のほうも我が子の嗜好を理解しようとしてくれているようで、以前より好きなものの話をオープンにできるようになりました。ただ、ひとつだけ、母のこうした言動に対し、やけに記憶に残っている出来事があります。

たしか、当時のわたしとほぼ同じ年の少女が、同級生を猟奇的な方法で殺害した事件が起きたときだったと思います。そのニュースを観ていたわたしに、母がいつもの調子で、「お願いだからあんたはこんなことしないでね。気持ちわるいもの(人倫に悖る題材の創作物を母はこう称していました)ばっかり見てるから心配だよ」と言ったのでした。
わたしは特になにも感じずに「しないよ……」みたいな返事をしたと思います。多少は傷付いたかもしれませんがそこまで大きな感情ではありませんでした。でも母のその発言に対して、兄が怒りを顕わにしました。普段から冷静で、客観性の権化のような人物である兄なのですが、母がその発言をした瞬間いつもより熱のこもった口調で、あくまで論理的に反論を始めました。

過去の事件を受けて、俗にいう「オタク」を犯罪者予備群のように見做す言説は現在でも一定数存在します(もちろんオタク=倫理に反する虚構を愛するひと、という意味ではありません。いっしょくたにそう括られることも多い、という傾向からここではこうした表現をしています)。母の発言にそうした要素を感じたがゆえの兄の反論だったのかもしれません。兄自身も「変わり者」と評され、その評価に苦しんできたひとだったので、ある種の偏見を(無論無意識でしょうが)含んだ母の思考が許せなかったのでしょう。
細かな内容はもう憶えていませんが、そこまで強い口調で母に反論する兄を見たことがなかったので驚いた記憶だけははっきり残っています。そのときは兄の反論に納得していなかった母も、こころなしかその後、態度を軟化してくれたような気がします。そうやって結果的にわたしを擁護してくれた兄を見てどこか救われた心地がしましたし、わたしも無意識の偏見を持って世界を見ているのではないかと思うようになりました。この一件以降、せめて自身のような、ダークサイドの虚構に救いを求めるひとを否定しない人間になりたい、とは、頭のどこかでずっと考えています。なんか真面目っぽい話になっちゃいましたね。体痒くなってきたな。蕁麻疹かな?

2021.02.13 SAT
67日目です。ひさしぶりに2時間ほど真面目に作業をしたので、家に帰ってから5時間くらいゲームをしながらゲーム実況を観ていました。相変わらず無為な人生です。

2021.02.14 SUN
68日目です。昨夜、少し大きめの地震がありました。幸いにも筆者にはさほどの被害はなく、ただでさえ汚い机上がもっと汚くなったくらいでした。冗談はさておき、余震等に注意しなければと思います。読んで下さっている方もお気を付けください。

正直なところ、10年前の地震を思い出して肝が冷えました。ものすごく気持ち悪い揺れが徐々に大きくなっていく感覚にぞっとしました。当時も筆者は直接的な被害は受けませんでしたが、連日の報道や、地元の商業施設の浸水だったり、東北へ進学した友人と連絡が取れないのだとずっと携帯を見つめていた兄の様子が忘れられません。
当時被害の大きかった関東圏に住んでいた知人が、「あの地震のあと、冷蔵庫のなかの食べ物がだんだん腐っていった様子が忘れられない」と淡々と言っていたことがやけに印象に残っています。経験から生まれた言葉の持つ重みとはこういうものかと思いました。

2021.02.15 MON
69日目です。月曜ですね。月曜といえばとある週刊少年漫画雑誌の発売日です。これまで何度かそれとなく話題に出ている「某呪術漫画」が連載されている、アレです。筆者は単行本で追っているので本誌がどんな状況なのかは完全には把握していないのですが、ついったのトレンドを見ているといかに現状が地獄なのかが伝わってきて、虚空を見つめるしかなくなります。どうしてこうなってしまったんだ。阿鼻叫喚じゃないか。
ちなみに筆者が某漫画で特に好きなキャラクターは二名ほどいるのですが、一名は箱詰めにされたきり単行本約4巻分(2021年2月現在)まったく音沙汰がなく、もう一名は本編が始まるまえから故人なうえ敵に遺体を乗っ取られています。遺体を乗っ取られる推しってなに? こんな推し初めてです。誰か助けてくれ。

2021.02.16 TUE
70日目です。やらなければならないことを「やらないとな~」と思いつつ、ここ数日某ゲーム実況者さんの動画を延々と観ています。北海道出身の方だそうで、言葉の端々から懐かしい訛りが聞こえてきてなんだか嬉しくなります。とっても元気で言語感覚もキレキレなので、現状を忘れて笑っていられます。忘れちゃいけないのではないかという問題はここでは措きます。

筆者は同年代でもかなり訛りが強いほうだったのですが、地元を出る際父に「お願いだから訛りを消さないでくれ」と言われ、おめー上京する我が子に唯一言うことがそれかと思いつつ遵守しています。寺山修司かな。モカ珈琲はかくまで苦しってか。筆者自身、地元の方言が大好きなので、恐らくもうしばらくはこのままのしゃべり方で生きていくと思います。というかなんか地元にいるときより訛りがきつくなってる気がする。なしてだべ。

余談ですが、ドラマ等で北海道弁を耳にするたび、どうしても「語尾」が気になってしまいます。いついつでも「だべさ」を使うわけではないのです。微妙なニュアンスの違いがあるのです。地元の方言が音声作品で使われているのを聞いたことがある人は、誰しもおぼえたことのある違和感・苛立ちなのではないかなと思います。方言は難しいですね。
使い分けのイメージとしてはこんな感じです。なお、あくまで筆者の地元(東の海側)準拠なので、道内でも地方によってはイメージに相違があるかもしれません。あくまで個人の感想です。感想?

「~しょ」「~っしょ」=標準語で言う「~でしょ」「~じゃん」に相当。このなかではいちばん柔らかい印象を与える語尾。
「~べさ」=標準語でいう「~じゃん」「~だろ」に相当。少し語調が強くなる。「べさ」の変形として「~べし」があるが、使う人はあまり多くない印象。ちなみに筆者は使う。
「~べや」=標準語でいう「~だろうが」に相当。かなり語調がきつい。少し怖い印象を与える。

「べや」は若者・女性はあまり使わないかもしれません。筆者の親はとんでもなく怒っているときくらいしか「べや」を使いませんでしたし、飲み屋のおっちゃんたちが激しい口調で「べや」の応酬をしていたら喧嘩が勃発している可能性があります。近寄らぬが吉です。もし北海道の東側を舞台にしたなにがしかを制作することがあれば参考にしていただければ幸いです。そんなピンポイントなことある?

ほんとうにありがとうございます。いただいたものは映画を観たり本を買ったりご飯を食べたりに使わせていただきます。