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スニッフ ─スナッフ番外─


 パパが出ていったあとの母の機嫌は最悪で、そういうとき必ず彼女は、息子である彼に煙草を買ってくるよう命ずる。猫撫で声で懇願するときもあれば冷徹な将校のように告げることもあって、どちらにせよ彼が難色を示した途端表情を一変させ、金切り声で同じ内容を叫ぶのである。
 その日の彼女は将校で、子どもは煙草を買うことができないのだ、と彼が拙いながらも丁寧に説明した瞬間激昂し、いいからとっととこれで買えるだけ買ってこい、と見慣れた色柄の煙草の空箱を投げつけてきた。玄関から放り出されたあと蓋を開けたら、中からはくしゃくしゃの千円札が一枚出てきた。

 数ヶ月前までは、アパートから少し歩いた先にある煙草の自動販売機で(通りすがりの人々に怪訝な目で見られながらも)なんとかお遣いを済ますことができていた。しかしあるときから、自動販売機へお札を入れてもべろべろと吐き返されてしまう。もしかすると彼のような悪い子どもがいるために、自動販売機が自動的に客の年齢を感知して、子どもの入れた金銭を付き返すようになったのかもしれない。子どもが煙草を買うのはあまりよいことではないと、彼は薄々勘付いていた。
 そのため彼が取れる方法は実店舗へ赴くことに絞られたが、これは上手くいかなかった。コンビニの男性には呆れたような微笑で追い返され、スーパーの女性にはなにを考えているのかと詰め寄られたので怖くなって逃げてしまった。そうやって手ぶらで帰るたび、夜になるまで家に入れてもらえないうえその後もたいそう怒られるので、彼は母から与えられるさまざまな理不尽のなかでも、「煙草のお遣い」がなにより嫌いだった。

 その日彼が向かったのは少し歩いたところにある煙草屋だった。その煙草屋には何度か行ったことがある。人通りの少ない、線路脇の道にある小さな店で、いつもおばあさんがひとりで店番をしていた。彼の身長では少し背伸びをしなければ届かないところに小窓が付いており(そのガラスを取り囲むようにべたべたと、色褪せた煙草の箱の写真が大量に貼られていた)、その向こう側に座ったおばあさんは、皺だらけの目元をぎょろぎょろさせながら、目の前の通りを見渡しているのだった。これまで何度も追い払われていたが、結局買えないことには変わりないのだから、どこへ行っても同じだという諦めが彼にはあった。どうせ暗くなるまで、母の気が収まるまでの時間潰しに過ぎない。
 しかし、重い足を引きずりながら店に辿り着いたとき、予想に反して例の店の小窓には、年季の入った小さなシャッターが下りていた。少なくとも彼はこれまで、この煙草屋にシャッターが下りているのを見たことがなかった。
 彼は驚いて、シャッターをしげしげと見上げた。急な用で店を閉めているのか、それとも彼が知らなかっただけでこの曜日は定休なのだろうか。もしかしたら、開店はしているけれど、うっかりシャッターを上げ忘れたのかもしれない。もしそうなら気付いた自分が教えてあげるべきだろう。赤錆の浮いたシャッターへ拳を打ち付けると、ガシャン、ガシャンとぎょっとするほど大きな音が鳴ったが、シャッターの向こうにひとの気配はなく、あたりの静けさが余計に際立つだけだった。
 彼はその場に立ち竦んでいたが、しばらくして諦めることにした。あまりひとところに留まっていると近所のひとに声を掛けられてしまうかもしれない(母は彼が近所の大人と話すことをとても嫌がった)。このあとはどこへ行こうかと途方に暮れながら、店へ背を向けようとしたときだった。
 背後から、サッシ戸が開くような、微かな音が聞こえた気がした。それから間髪入れず、ギャリギャリというけたたましい金属音。振り返ると、三分の二ほど開いたシャッターの下からこちらを窺ういつもの老婆──ではない。彼女とは似ても似つかない、真っ黒な髪の若い男がひとり、じっとこちらを見ていた。
 見たことのないひとだ。細身で、顎のあたりに大きなほくろが三つ並んでいる。まえのまえにいたパパ(たしか大学という学校に通っていると言っていた。とても優しくて好きだったが、ひと月ほどで母と喧嘩して出ていってしまった)と、そう変わらない年齢に見えた。見るからに不機嫌そうな顔で彼のことを凝視しているので固まっていたら、
「なに?」
と突然しゃべった。不機嫌を隠そうともしない若い声だった。
「あ、あの、えっと」
「なんか用? くそうるさかったんだけど」
「そ、その、た、たばこください」
「……へえ」
 目の前で起きていることが未だによくわからない。上擦った声で答えると、青年はさきほどまでとはどこか違う眼差しでじっと彼を見、ふいにいままでの不機嫌が嘘のように柔和な微笑を浮かべた。
「おつかい?」
「う、うん」
「えらいね。種類は?」
「あの、こ、これとおんなじやつを、か、買えるだけ、ください」
 あわてて千円札を取り出し空箱と一緒に差し出すと、青年はふたつをひょいと掴んで空箱をしげしげ眺め、首を捻りながらシャッターの向こうへ引っ込んだ。数十秒と経たないうちにまたにゅっと現れて、ん、という短い声とともに片手を突き出してくる。咄嗟に差し出したてのひらに、白い空箱と、緑の箱が三つ落とされた。
「あ、ありがとう……」
「いいえー」
「でもこれ、はこの色ちがうよ」
「は? 知らねえよ」
 どっちもセブンスターだろ。青年が表情を歪め、しかしすぐに笑顔に戻る。彼はぽかんと青年を見上げていたが、ふいに自身がお遣いを成し遂げたという事実が身に迫ってきた。こんなに簡単にことが済むなんて、夢でも見ているのかと思った。
「あの、おつりってないですか」
「……あー、ちょうどだったからないよ」
「その、ありがとう、ございました」
「あ、ちょっと待って」
 一刻も早くアパートへ帰って、母の機嫌を直したい。しかし踵を返そうとした瞬間、青年が彼を呼び止めて、小さな紙とボールペンを差し出してきた。見上げると、青年はさらに笑みを深めて言った。
「これにお名前と住所書いて。決まりだから」
 青年が言うには、少し前から法律が変わり、彼のような未成年者が煙草を買う場合、住所と名前を証明しなければならなくなったらしい。渡されたのはメモ用紙のようで、それを受け取りながら彼は、だから自動販売機でタバコが買えなくなったり、店から追い出されたりしたのだと思った。店員も面倒がらず教えてくれればよかったのに。
 彼は足元へ箱を置き、店の外壁を机がわりに住所と名前を書いた。外壁がごつごつしているせいで書きづらかったが、最近小学校で手紙を書く練習をしたから、その成果を活かし郵便番号まで丁寧に、大きな字で書いた。書き終えた紙をボールペンとともに渡すと、青年は微笑んだまま、字ぃきたな、と言った。
「ええと、あおきたくと、くん」
「うん」
「はしづめはいつ、一〇二ごうしつ」
「うん」
「いま何年生?」
「えっと、二年生」
 証明に必要なのだろう。せっかく買えた煙草を取り上げられないよう、彼は誠実に解答した。青年は紙と彼を見比べながらうんうん頷いている。
「お遣いは誰に頼まれたの?」
「お母さん、です」
「ふうん。お母さんのお仕事なに?」
「くらぶ……?」
「お父さんは?」
「おととい出てった」
「あれまあ。そりゃ寂しいね」
 正直、まえのまえはともかく、今回のパパはすぐ怒るひとだったから好きではなかった。だからあまり寂しくないし、どちらかというと安心している。正直に答えると、青年は一瞬目を丸くしたのち、大きな声で笑った。
「お母さんのこと好き?」
「すきだけど、おこってるのはきらい」
「そうだよねえ。新しいパパは? 欲しい?」
「……やさしかったら、ほしいけど」
 母を叩いたり、すぐ怒鳴るようなパパならいらないと思った。母が連れてくるパパはいつもそうだ。最初は優しいのに、数日経つと怒りっぽくなって出ていってしまう。そのたび母は部屋の隅で一日中泣いたり、チューハイをたくさん飲んだり、こうして自分に煙草を買いに行かせたりする。口籠もった彼へ青年はさらに身を乗り出し、大きく開いた両目でじっと彼を見た。
「じゃあ、青木と黒川だったらどっちがいい?」
「え? なに?」
「色だよ。青と黒ならどっちが好きって訊いてんの」
 青年の瞳は真っ黒で、彼は目を逸らせないまま、クラスでの出来事を思い出した。男子が「戦隊」の話をしており(彼はそれを観ていないから、話を振られないよう息を潜めていた)、ブルーが好きだという高本くんが、ブラックが好きだという木原くんたちに酷く責められていた。そのとき彼は、もし自分が同じことを訊かれたら、絶対にブラックが好きだと答えなければならないと思ったのだ。
「く、くろがすき……」
 口に出した瞬間、眼前にあるふたつの瞳が弓なりに反りかえった。青年の頭が遠ざかり、優しげな笑顔がきちんと見えるようになる。青年は満足そうに、たくとくんはいい子だね、と言った。
「たくとくんはいい子だから、今日のこと内緒にできる?」
「え、う、うん」
「そう。じゃあね」
 それだけ言って、青年は窓の向こうへ体を引っこめると、彼がなにも言わないうちにギャリギャリとシャッターを下ろしてしまった。ガシャン、と乱暴な音が響き、微かに窓がサッシを滑るような音がして、それきり静かになった。

 数週間後、消防車のサイレンが酷くうるさかった夜の次の日、学校から帰るととても嬉しそうな顔の母に出迎えられた。新しいパパを紹介すると言う。和室へ上がったとき、そこに座っていたのがあの青年だったものだから彼はとても驚いた。ぽかんとしているうちに母は、なんとかさんだよ、と青年を下の名前で呼び(ぼんやりしていて聞き取れなかった)、彼を青年の横へ座らせると、ケーキを取ってくると言って台所へ消えた。
 学校では、燃えたのは例の煙草屋だという話題で持ちきりだったから、彼はひとまず青年が無事だったことに安堵した。だから何気なく、火事大丈夫だったの、と訊ねようとした。
 青年は、彼がなにを言おうとしたのか気付いたらしかった。彼が声を発するより先に、唇のまえへ人差し指を立て、しい、と細く息を吐いてみせる。それからあの日と同じ笑顔で、ないしょ、と囁くように言った。だから彼もあの日のことを思い出し、あわてて人差し指を立てると、パパと同じように息を吐き出すに留めた。


本作品は、北十『砂時計』第4号収録、小説「スナッフ」の番外短編です。
『砂時計』第4号は、10/1ポエケット(東京・新小岩)、10/2文フリ札幌、11/20文フリ東京ほか、「北十」公式ストアからご購入いただけます。

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