令和に潜む妖怪たち 第四十頁【わいら】
【画図百鬼夜行 風】
第四十頁 【わいら】
私には生まれる前からずっと一緒に居る姉が居ます。
姉と私は背丈も容姿も同じ。
一卵性の双子なのです。
ずっとずっと一緒。何があっても私達は共鳴し、共に手を取り合って生きていた。
私達にとってはどちらが姉のカサネで、どちらが妹の私、ヨリコであるのかなど関係がありません。
どちらもカサネでどちらもヨリコであって私達はそれで良いのですが、周囲の者がそれではいけないらしく、私達は便宜上、そっくりな姉妹を見分ける為に、この絹の様な黒髪の形を定められました。
私が腰程の長髪にしていて、姉が肩程までのおかっぱ頭にしています。
あ、おかっぱなんて言うと姉が怒るんです。確かそう――ボブって言うんでしたっけ。いけないわ、怒られてしまう。
私達は地元の神社で双子の巫女をしていました。
それは大層評判だったのですよ。
けれど今は巫女は一人。
私だけなのです。
姉は病に罹りました。
心の病です。
うつ……それだけならまだしも、姉は去年の暮れからあらぬ物を見て、何も無い所に視線を向けて話し出しました。
統合失調症が併発し、泣いたり、叫んだり怒ったり笑ったり……極度のストレス状態により綺麗になびいていた黒髪は見る陰もなく抜け落ちていきました。
姉は精神科の病院に入院し、そして二年の歳月が過ぎました。
その二年間の間の私の寂しさ、喪失感と来たらありませんでした。
私にとって姉がいないという事は、まさしく半身を失うのと同じ事であるのです。
私は腑抜けとなりました。
私達は全く同じ様でありながら、その実、内面は遥かに姉の方が優れていました。周囲の人達は私達を同じ様に評価しますが、私はいつも姉の決定に後ろから付き従って行くだけ。私が姉より優れている点など、ただの一点さえもなかったのです。常に指針となるのは姉の方で、私はまともに考える事もしないまま、彼女の後を追っていくだけでした。
姉は退院してきましたが、病はあまり良くなった様には見受けられませんでした。姉は以前にも増してボーと虚空を眺めて、「腕が足りない」「指が欲しい」などとぼやいています。けれど医者の話によりますと、ここが姉の病の寛解点であるらしいのです。
魂の抜け落ちた様なそんな状態で、ふらふらと外を出歩いて行方が分からなくなるので、姉は蔵にある座敷牢に入れられてしまいました。
この村は古いので、そういったものがまだ残ってるのです。
暗い蔵の中にある錆びた檻の中で、姉はぼんやりと天井の隅を見上げたまま座り続けていました。
父は一時的な処置だといっていましたが、一体いつまで姉をそうしておくつもりなのでしょうか。私には父が、臭いものに蓋をして考える事をやめたのだとしか思えませんでした。
やがて、姉は家族にとって、そしてこの村にとっても、居ない者にされていきました。
普段の通りに過ぎゆく日常に、姉の姿はありません。
いつまでもあの牢の中で静かにしている。
誰も姉の事を思い出す事も、話題にする事もなくなっていきました。
私だけが一人、姉の元に足繁く通い続けました。
変わり果てた姉に語り掛け、微笑み掛け、昔の話をしたりしてご飯も食べさせる。トイレの始末もします。体を拭いて着替えさせたりもします。
そんな事は苦では無いのです。私にとって姉は、全て。そして人生の指針であり半身なのですから。
しかし姉は――座敷牢の中で彼女はずっと、趣味であった裁縫や編み物をし続けているのですが、どういう訳なのか姉は、編み込んだセーターの端を針と糸で自分の体に縫い付けたり、指先に無数に糸を刺したりする様になりました。
遂に姉は自傷行為をする様になったのです。
精神科の薬の影響なのか、姉は血が流れていても気付かない程に痛みに対して感覚が鈍麻している様でした。
しかし私はその事を誰にも、家族にも相談出来ずにいました。
いくとこまでいってしまった姉の事を家族に話してしまえば、彼女は再び精神科に入院させられてしまうでしょう。
私にはもう、姉のいない歳月など耐えられませんでした。それに入院したところで、以前の様にたいして変わらない状態で帰されるか、悪くすればもっと長い期間をあそこに閉じ込められるのでしょう。
だから私は姉の病状を黙っていました。家族はもう、姉の事は私に任せきりで様子を見にも来ませんでしたから。
ですが私は姉から裁縫道具を取り上げる事はしませんでした。
姉から唯一の趣味である物を奪い取ってしまっては、姉は日がな虚空を眺め続けるのみで、人間らしい事など何もしなくなってしまうからです。それに姉は裁縫をしている時だけは時折、以前のような笑顔で
「ヨリコちゃん、見て」
と笑う事があるのです。
それは姉に残された最後の人間性であるかの様に私には思えました。
それでも、日に日に幽鬼の如く相貌に変わって行く姉に、私の心もまた疲弊していきました。
いつまで経っても軽快していかない姉の容態に、私の状態もまた姉に引き摺られる様にして奈落に落ちていく様でした。
ある時私は遂に、姉の前で膝を着きました。そして心の底から泣いたのです。
どうして姉がこんな事に?
どうせなら、姉ではなく無能な私の方がこうなれば良かったのに。
一人では何も出来ない、何も考えられない決められない私が一人残されたところでしょうがない。
姉ではなく私が、こうなれば良かった。
畏ろしい。
私ではなく姉が堕ちていくのが、私にとっては何よりも畏ろしい。
私はせめて、姉の欲望を全て、姉の望むものを全て、あらゆる事であろうと叶えようと、そう思ったのです。
私に変わって姉が生きられればそれで良い。
「お姉ちゃん、どうして欲しい?」
「……」
「私にどうして欲しい? 私に出来る事はなんでもしてあげる」
「……」
「私の全部をお姉ちゃんにあげる。私がお姉ちゃんになってあげる」
「…………ヨリコちゃん」
*
――ああ、どう言う事でしょう。
これは何?
私の体はどうなっている?
……そうか。
……ああっ、そうか。
嬉しい。
嬉しいの。
私とお姉ちゃんは二人で一つ。
やっぱりそうだ、
そうなんだ。
ああ、お腹の下がじんわりと暖かい。
母の羊水の中にお姉ちゃんと居た時といっしょ。
同じなのだわ。
ああ、段々寒くなってきた。
もう痛みも感じない。
おかしくなっていたのは私なんだわ。
おかしくなっていたのは姉ではなく私だったのだわ。
きっとそう。
うつ伏せになった私の手首から先はもう無くなって、溢れ出す血はもう冷たくなっていた。
けれど私の手はこれからは姉と共にある。
あり続ける。
ああ、私の頭はもう無いけれど、お姉ちゃんが被ってくれている。
長くて美しい、絹のような
私の髪――
これで見分けの付かないでいたあの頃と同じだね。
そうだよ。
私達は二人で一つなのだから見分ける必要なんてなかったのにね。
腰から先の感覚はもう無かったけれど、そこから溢れ出した太く赤い私の糸で、お姉ちゃんが裁縫を始める。
あの頃の様に、微笑んで。
幼い頃、姉の裁縫を隣り合って眺めて笑い合った事がある。
遠い昔……
あの頃と……
おなじ――――……
「ヨリコちゃん」
私は姉になったのだわ。
――――――
『わいら』
這いつくばった様な姿勢で、両手にそれぞれ一本のカギ爪のある牛の様な体で描かれる。その殆どが下半身の隠れた姿で描かれている。
「畏」とは怖いという意味である。
解説がない為に正体不明の妖怪。
『百怪図巻』『画図百鬼夜行』のいずれでも『わいら』と『おとろし』が順に描いていることから、「恐い(わいら)」「恐ろしい(おとろし)」と二体で一対の妖怪とも言われる。
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