大切なことを気づけた。これこそ奇跡🌟

おはようございます。

昨日寝る前に「明日の奇跡でワクワク」と書いて寝ました。

その結果をお伝えします。


奇跡はおきていました。
いいも悪いも全て自分次第の奇跡。

何が奇跡だったか。。。
もうきっとお分かりのことでしょうね。

そう、正解。
生きていること


今朝も、目が覚めていつもの1日をスタートした。

5時前に目覚め、トイレに行って、着替えて、わんことお散歩。

白わんこが水をよく飲むようになって、朝は必ず水待ち。

その間、茶色わんこを撫でまくり、リードをつける。

今朝のお空は暗く、もわっとあったかい。
いや、冷たいけれどその中に「雨」を感じる湿った感覚。

樹々が何やらモゾモゾしているような感覚。

用意ができて、玄関ゲートを開けて外に出る。

桜の大木がそろそろ「春じゃね?」とモゾモゾしている。
おはよーおはよーと挨拶しながら歩く。

あー
今日も普通の一日だー
これってもしかして奇跡なんじゃないのかな。

文句言ってても、不満言ってても、言える体があるんだよねー。

知ってたよ。
もちろん書いても話してもいる。
でも、なんか違う感じ方。

このなんとなくがなんと大切か。

散歩を終えて帰宅し、夫氏の朝ごはんをいただく。

ーいただきます

と手を合わせたら

いただかれます


と返事があった。
それも、笑いながら。。。


そのまま夫にシェアした笑

忘れていた?
預けていた?
置き去りにしていた?
隠していた?

とにかく、この感覚を口にしていこうって思ったので。

しばらく、感じていなかったこの感覚。

昨日書いた「教えてくれるんだ」。
これもあれだよ。

お墓参りに行って「教えて」とお願いしたから教えてくれたんだ!ではなく。。。

いつも発信してくれているのだけれど、受信側が受け取れてないだけなんだよね。

気づいてないのだよ。
そうやって、加護の元にあるのに。
常にいかされているのに。
分からなければ聞けばいいのに。
助けてって言えばいいのに。
顔を上げて、手を広げて、伸び伸びと入ればいいだけなのに。

ほんっとポンコツ❤️

奇跡って、、、
今、うずまきの感じている奇跡はね。

そんなこんなをまるっと「肚落ち」することができたことそのものが奇跡🌟


何かをすること
何かを得ることが
奇跡なんじゃなくて、どう全身で感じているか?
自分自身の「命」そのものが、どう在って、どのような心境で受け止められているか。

ずっと、今の自分に繋がるように、誰かと誰かがいて、その人々が暮らし生きていたから、わたしがいる。

そして、そのためには「命」が差し出され、いただいて活かしてきたのだ。
無意識にでもね。

食べることは生きること。
偉大な行為なんだよね。

昨日、福島の原発事故の限定公開のYouTubeを観た。
その中に「載せるか迷いましたが、現実を知って欲しくて」と前置きがあった画像あった。

避難指示が出たため、置き去りにするしかなかったというそれは「繋がれたまま餓死した乳牛の姿」だった。

そこに牛がいたんだ。
津波の被害がなかったけれど、原発事故のせいで、亡くした命。

繋がれたまま、きっとずっとお父さんお母さんを待っていただろうな。
原発事故が無ければ、そんな悲しさをわざわざ感じずに済んだだろうに。

生死は自分で決めていることで、寿命なんだ。
これも肌で感じている。
だとしても、

寂しかったろう
喉も乾いただろう
お腹も空いただろう
寒かったろう
最後に撫でて欲しかったろうな

って、、、。
やっぱり、寂しいのが一番堪えるよね。


原発は本当にだめだよ。

そんな電気で育った来たのだけどね。
原発が明るい未来のエネルギーだってこぞって沸いた年に生まれたわたしは、正しくそのエネルギーで育ったんだよ。

誰も間違ってない。
希望の光だったんだもんね。

でも、、、
そうやって、経済経済で結局「幸せ・豊か」をどんどん遠いものにしてそれがあたかも「夢」のようなものに仕立て上げたことで生きづらさを創ってしまったのならば、もうやめ時だよ。


小学校の卒アルの「将来の夢」を書かなくてはならず、困ったのを覚えている。

結局なくて
とりあえず「牧場主」と書いた。

可愛いお母さんとか保母さんとか先生とかお菓子屋さんとかパン屋さんとか、野球先手とか。。。

ぜーんぜん興味ないし、そんなもんになりたいとか全く思わなかった。
そんな俗世なことではなくて、、、と考えて絞り出したのが牧場主だった。

今思うと、経済優先の変な空気感をキャッチしていたんだろうね。

夢なんざ、持てるはず無かったんだ。
今も相変わらず、無いけどね笑

牛の気持ちになってみた。

小さな手を離したその瞬間、津波に持っていたかれた話も聞いた。
その十字架を背負って生きなければならない。。。

あまりに大きすぎて、能登のことに反応できなくなっている人が多くあると、宮城の方のお話しだった。

どんなに悲しいことがあっても、生きなければならない。
孤立集落ができ、悲しんでばかりもいられない、、、目の前のこの子がお腹を空かせてる、、、
そうだ、食べなきゃ。。。と立ち上がるのは「女たち」だと。

自然発生的に「女たち」は結束を固め、立ち上がり「行動」し始める。
くだらない権力争いなんて発生しない。
くだらない自己実現も発生しない。
誰かがどうのなんてくだらないことなんて言ってる暇なんてない。

目の前の命をなんとかして生かすことだけを考えられるのが「女」の性。

起きたことは甚大で未来を考えると不安しかないけれど、孤立集落で起きていることは「ユートピア」だったと、生き残った自分の命を精一杯燃やしている80歳の経営者は話してくれた。

わたしの私見も織り交ぜて、書き起こしてみた。


もし、わたしがそこにいたとしたら、どこまでできるか分からないけれど。


生きてる命を生かすことが、生きるってことで、生きてるから生きなくちゃいけないのだ。

どんなに悲しくても、生きなくちゃいけないんだよ。。。


何もできない自分があの2012年3月11日からずっといた。
自然エネルギーに契約できて、やっとその感情から少し解放された。
だけれども、何も終わってないんだって。やっぱりどこか他人事だったんだよね。

自然でないこと
不自然であることは、やっぱりやらないことだね。

自分の体が「嫌だ」ということ、これも不自然なことなんだよ。
ちゃんと、体の声を聞こう。

外野がうるさいけれど、自分の声は自分にしかこくことができないのだ。
だから、正解も不正解も自分にしか分からない。

だれもそれを「正解だよ、不正解だよ」なんて言えないの。

でもね、ちゃんと目に見えるように、判断できるように「現実」として表してくれているんだよって。

不要な持ち物は持たない。
自分を何かで埋めない。


ご飯食べてて、お皿持ってかき込んだ。
「お箸がうまく使えなくて」と言ったら、右手が「おい」と。
思わず「ごめん」と言いました。

暮らしを引き算していこう。
何も出来なくても構わない。

生きてるだけで、正解なんだ。
この命、毎日食べるのもが差し出してくれてる命で出来てるわたし。
存分にご機嫌でいることが最大の恩返し。

大切なことを気づけた。
これこそ奇跡🌟

ありがとう❤️

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