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エゴイズムの根源のお話+おしらせ

「あんたが生まれた時 お父さんは私の友達と朝まで一緒に居たのよ」

「私が生まれた日の話」 をする時、
母は決まって苦々しい表情と共に そう話した。

私は当時「生まれた日の話」に輝かしい期待感 を抱いていて、母の渋い表情 とのギャップに違和感を感じながらも

その言葉の真意が分からず困惑したのを覚えている。

度々聞かされるその話は
意味は理解できないのに 聞く度に妙に胸が不快で 、 なにか奇妙な呪文のように感じた。


どうにも頭にこびりつき 何度も繰り返し考えていたので その言葉の全てを理解するまでに それほど月日はかからなかった。

全ての意味が ストンと腹に落ちた日に

私が生まれた日 父が母の友人女性と朝まで2人きりで過ごしていたこと
(そして何かが起きたかもしれないこと)

母はそれを恨みつつ私を産んだこと

そして
“自分がいかに可哀想か”を話すために 平気で何度もそれを 伝えてくる程度に 自分が瑣末な存在だということ

を理解した。


心の準備は自然と出来ていて、
自分でも驚くほどになんの感情も湧かなかった。
ようやく腑に落ちてスッキリした  と思う程だった。


ただその時から しばらくの間、
私は自分の存在に対して懐疑的になっていった。


当時まだ幼かった私は、

“この世に生まれた日”は誰しも素晴らしいもので 当然に両親が喜びあって赤ん坊を迎えて 渾身の愛をその子に注ぐ  

そんな日であるはずだと当たり前に思い込んでいた。

少なくとも産まれる瞬間というのはそういうものなんだと。

そんなように周りの大人から教えられていたし、テレビや絵本なんかでも やや過剰に美化されているものを目にしていたので 疑うことなくそう信じていた。

だから私は、
「自分だけそうじゃなかった」という事が
凄く恥ずかしいことに思えた。

皆は そうして迎えたはずの生誕の日を、
自分だけ違かった。

そして子供に成長しても尚、
そんな話を平気で伝えられてしまう程度の存在にしか自分はなれなかった。

そのことが 凄く自分が 人間の劣等生のように感じた。

道を歩いていても 学校に行っても 友達と話していても
ふとした時に 自分の劣りが滲み出てバレてしまっているんじゃないかと 生きていることが恥ずかしく恐怖だった

そんなこんなで、
そこから 体調を損ねたり、人に迷惑をかけたり、不義理をしたり 散々に 恥を重ねて妙な生き方をして

なんやかんやで このような人格形成に辿り着いて今を過ごしている。


当時より多少視野が広まった今となって考え直してみれば、

恥ずべきは 生きていること でも劣っていることでもなく、
己の無知狭小な視野であったと思う。


「生まれに多少ケチがついたくらいで 随分と長い期間 拗らせてしまったなぁ」というのが素直な感想で。

この世には自分以外の人間がとんでもなく沢山いて、当然にそれぞれ生まれも事情も価値観も異なる。

そして皆、今までを生きてきて 終わりの日までこれからを生きていく。

そんな まばらな 長い線たちの中で、
生まれ や いつかの出来事や持ち物  
人生の中の たった1つの地点を切り取って比べたくらいで 人の価値 に傷なんてつきようがない

と気がついた。

いやもし傷がついていたとしても、
生まれてから死ぬまでをギュッとまとめて平均して見たら 結局誤差の範囲なんじゃないか。

価値が増えも減りもしない 結局何も変わらない という考えは 私にとって大きな救い になった。


それでようやく私は、幼い頃に刷り込まれた「生まれた日は素晴らしい 論」というそもそもの大前提が崩壊するのを感じた。

生まれた日は素晴らしい 論 を元にすると、

「必ずあなたを愛してる人がいるよ」

「必ず誰かがあなたを大切に思っているよ」

「誰もが望まれて生まれてきた存在で尊いんだよ」

というような よく耳にした綺麗な言葉が浮かぶ。
これも素晴らしいと思う。
この考えで救われる人がいる。
救われるならその人にとってはそれで良いのだ。

しかし生まれた日がどうにも素晴らしくなかった 人間には 出来れば別の救いも欲しい。

もし、
誰にも愛されなくとも
どこにも自分を大切に思う人が居なくとも
誰にも望まれずに生まれたとしても
あなたは尊い

生き続ける権利が有る

当たり前に幸福と安心を手にし続ける価値が 生まれた瞬間から少しも損なわず あり続ける


そんなような異説も1つくらい用意してあると嬉しい。

今も毎年 自分の誕生日が近付くと、
例の奇妙な呪文が耳の奥から何度も何度も聞こえ始める。

その度に、「生まれた日素晴らしい 論」を享受出来なかった 子供の頃の自分と

今 どこかで 昔の自分と同じく 自分の存在を肯定できずに過ごす子供 の姿が頭に浮かぶ。


どうか 全ての子供が
生まれた その日が 素晴らしくとも 素晴らしくなくとも

自分の存在の尊さを疑わずに生きられるように

当たり前に 幸福と安心の中 毎日眠りにつけるように

そのように願わざるを得ない。

しかしこれは、
私が私を救うために生まれた 特大のエゴイズムである。

私は毎年それを自覚し直し、心地よい羞恥をまた重ねて新しい1年を始める。

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そのようなわけで、
2023年の自分の誕生日(4/13)に合わせて

クリスマスにも開催した
【Exhibiti in Society(社会の中の展示)企画】

Twitterに掲載した該当作品への
【いいね×10円】
を 子供の支援を行う団体 に寄付する

という企画を開催します 。

4月1日から13日までの期間でTwitter上で開催致します。
機会がありましたら 1いいね で寄付への御協力をお願い致します。

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