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こうして時代を獲ろうと思う。(具体的な話)

私のひとつの大きな野望を話す。

私は
【子供を育てる絵】を作りたい。

子育てしている情景を描きたいというわけではない。

私の絵が どこかの子供を育てる。
そういうようなことをしたい。

それをムーブメントとして広めて、
いずれ【森を育む作品】【カンボジアに井戸を作る作品】などができてもいい。

今 アートの役割のひとつは、
【直接 現実の社会問題に手を出すわけではないが、問題提起をすることや 主張を視覚的に表現すること】だと語られる。

私もそれはアートの大きな存在意義であり、素晴らしい価値だと思う。
それでこそ出来ること、それだから良い事がたくさんある。

しかし私はふと思った。

「直接 現実の社会問題に手を出すわけではないが、」

アートの価値や役割について話す時、何度も何度も多くの人の口から聞いたこの言葉。

この 越えないことを前提とされた壁を、ぶち壊す事は出来ないのだろうか。

出来ないから、やれない  ことと
出来るけど、やることを選ばない  ことには
大きな違いがある。

選択肢は多いに越したことはない。と私は思ってしまう。

全部根こそぎぶち壊そう! などとは言わない。
その壁には壁の価値や歴史があるし、それでこそ生まれるものがある。

ただ ほんの少し、屈んで這いずって抜けられる程の小さな穴を あけさせてもらうことは出来ないだろうか。

選択肢があったのでちょっとそれも選んでみます。
ぐらいに出来れば構わない。


私が常々主張している活動コンセプトは、
「アートは社会の中にある」「作品が社会の中で役割を持ち自立する」
である。

社会から様々なものを受け取り生まれたアートが、社会の中で利益を生み、その利益をまた社会に還元する。

これを【社会還元】と私は呼んでいる。
そして、作品がその社会還元の仕組みを一巡すること それこそが これからの新たな【作品】の在り方の1つだと主張したい。

言うなれば  
社会を巻き込んだインスタレーション

世界を支持体にした空間展示 
である

ここから少し具体的に話しを進める。

作品を販売した時や 作品を展示した時、
グッズを販売した時、その作品を含めた何かのアクションを起こした時 でもいい。

作品を社会の中のどこかの仕組みに据えた時、
それによって発生する利益を、
再び社会に還元する。

そういうことをしたいのだ。
それをするべきだ とすら思う。

ここでいう 利益 は 日本銀行券のことだけを指す訳では無い。
評価や、認知度、影響力、ファン、そのようなものも含め包括的に「利益」と呼んでいる。

そして利益の還元というのはつまり、
発生した利益によって、子供の成長を支援したり、植樹や森林保護を支援すること、カンボジアに井戸を作る、そういうような事である。

それが達成できた時【作品が直接社会問題に手を出した】と言えるのではないだろうか。


なぜそんなことをしようと考えるのか。
これは全くの私見だが、


例えば いつか作品の価値が上がり
たくさんの作品が売れるようになったとして、

日々の自分の食事を豪華にすることや、
娯楽を増やすこと、
高価なカバンや衣服を買うこと、

それは全く悪だとは思わないが

そのような事を考えた時 私にとっては
作品を作った後の流れがあまり美しくないなと感じる。

自分が 美しい と思える作品を作ったのなら
その作品の活躍の仕方も
その報酬の使い方すらも 
自分にとって 美しくあるのがいい。

全ての段階で、これは美しいと 自分が納得出来るものでなければいけない。

そしてもしも そのように社会の流れの中に作品を据えることが出来たなら、
金銭的な価値の影響を最小限に 私の死後も 作品は役割を持ち 自立してこの世界に残れるのではないだろうか。

「うん億円の作品」としてではなく

「子供たちを育てる絵」
「世界に森を増やし続ける絵」
として
生き生きと存在し続けられるのではないだろうか。

そのような事が可能になるムーブメントを、ひとつの選択肢として 世界の片隅に私は作りあげたいのだ。


最後に、間違っても誤解がないように1つだけ
断りを入れておきたい。

私は 決して、いい人 や ましてや 優しい人 としてこんな事を言ってはいない。

そもそもが これは優しい行いや 善行なんかではない。

あるべきものが、作品を1度経由して、あるべき場所に還る。
ただそれだけのことを 粉骨砕身 がむしゃらに実現しようと奮闘している。


ではなぜ、このような事をしたいのかというと
それは恥ずかしいほどに私のエゴであって。

私は自分が死んだあと、
私の愛する作品達が ただ市場の波の中で 
金銭的な価値の影響ばかりを強く受けて

価値が上がった下がった ましてや価値が無いなどとなってしまうことが耐えられないのだ。

なので、もし私が死ぬまでの間に この目標が達成しないのなら、

作品達をこの仕組みの中に据えられないのなら

作者を失い 資本主義の波の中で抜け殻になった作品たちを そのまま置いて1人逝く事などとても出来ない。

私の身体が燃える時、作品たちもこの世に欠片も残らないよう燃やして欲しい。

私はこのような 誰よりも、
それはそれは強いエゴを持って、
この目標に向かっている。

善意ではない。優しさではない。
だからこそ必ず成し遂げると自分で自分を信じられるのだ。

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