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創作大賞2024「消えた昨日の犯人」中編

前編はこちら。


 照真は見慣れた自室で、布団にくるまっていた。カーテンの隙間から漏れてくるのは、薄明かりと雀のさえずり。つまりは、いつもの朝である。
 ぼんやりとした頭が覚醒していくに連れ、照真はなんだかやるせない気持ちになっていた。むくりと体を起こし、さっとカーテンを開くと、閑散とした見慣れた街並みが目に映った。
「また夢かよ!」
 声を出すと、少しだけ気分が軽くなった気がした。一緒に虚しさも増したが、それは無視。
 それにしても、殺人犯として警察に疑われる夢なんて――そう笑い飛ばそうとしたところで、照真は一つの可能性に思い当たった。すぐさまスマホを手に取る。
 表示された日付は12月25日。つまり、事件当日の朝だ。
 照真は唾を飲み込んだ。
 待て、落ち着け。今が本当の朝だ。警察に捕まったのが夢だ。そうだろう?
 冷静に考えれば、そうに違いない。しかし、どれだけ思い込もうとしても、照真には内心の違和感が拭えなかった。
 鼻を突く消毒液の匂いに、手の平が沈む茶色いソファ。つぶさに観察した明里の容態と、初めて見た救急車の内部。そして閉塞的な取調室に、警察の睨み、冷たく硬い椅子や机も。
 それらの実体感が、あまりにも確かな存在となって、照真の中に居座ってしまっていた。
 もし、仮に。これから本当にあの内容が再現されるというのなら、照真は必ずそれを阻止しなければならない。何せ明里の命が懸かっている。
 今の時刻は7時2分。事件があったのは昼の1時過ぎだから、あと6時間ほどの猶予がある。
 逸る気持ちを抑え、まずは腹拵えとキッチンに赴いたところで、照真は異変に気が付いた。
 ――包丁がない。
 なぜだ? いつから?
 閃いてしまった嫌な思考は、瞬時に頭を駆け巡って望まぬ答えを結ぶ。
 ――明里に刺さっていた包丁は、うちのものではないのか?
 それなら、照真の指紋が付いているのも納得がいく。照真が普段から使っているものなのだから、当然のことだ。
 凶器の包丁はあり触れたものだった。それこそ、照真のものともよく似ていたから、自分のものではない、と言い切ることはできない。
 もし照真の包丁で事件を起こしたなら、真っ先に疑われるのは照真だ。そして、動機も分かりやすく『痴情のもつれ』で処理できる。明里を殺すのに、これほど打ってつけの凶器は他にないだろう。
 問題は『いつ、どうやって、盗まれたのか』だが……。
 思い立って玄関を見にいくと、なんと鍵が開いていた。照真が掛け忘れたのか、あるいは、誰かが密かに開けたのか。
 照真が掛け忘れたのなら、昨夜は照真が寝ている隙に、いつでも忍び込めたことになる。もし侵入者が鍵を開けられる人物であったのなら、それは忍び込んだ証拠と見なしていい。
 いや、鍵を開けられるなら、もっと選択肢は広がるだろう。夜は買ってきた惣菜で済ませたから、照真は包丁を使っていない。既に無かったとしても気付かなかった可能性がある。昼間は仕事で家を空けていたのだから、不意の侵入者があっても気付くことはできない。
 要するに、盗むチャンスはいくらでもあったということだ。

 朝食を済ませ、照真は自分に何ができるかを考えていた。そうして9時を過ぎた頃、スマホが音を立ててメッセージの受信を知らせた。差出人の名前は月宮明里とある。
『ごめん! どうしても外せない用事ができた! 何とか昼までには終わらせるから、時間遅らせて! ホントごめん!』
 照真は複雑な気分になりながら『わかった。埋め合わせはしてくれよ!』と軽口を交えた返事を送った。
 スマホを置いて、考える。
 どういうことだ? 俺は昼まで明里と会っていない?
 元々は、昼前に会って一緒に食事を取った後、散策する予定だった。だから、1時過ぎにホテル街にいたのは、何らかの手違いで通りかかったのだろうと推測はできた。
 しかし、昼まで会えていなかったのであれば、照真は明里と会うなりホテル街へ向かったことになる。照真の知る範囲で、食事をするのにホテル街を通るルートはないから、意図的にだ。
 それが事実であるなら、照真は猿だ。いくら明里と会えたのが嬉しかったとしても、そのくらいの節度は持ち合わせている。だとすれば、逆に明里が誘った可能性も……あるか?
 照真は額に手を当てた。
 駄目だ、分からないことが多すぎる――

***

「急にだんまりかい?」
 訝しげな顔をした星野は、まっすぐに照真を睨んでいた。夢であってくれという一縷の望みが立ち消える。照真は気を取り直して、直前のやり取りを思い返した。
『自分の指紋が付いていると認識していたんだね?』
『違いますよ! そうじゃなくて……』
 照真は一つ深呼吸をした。
「うちの包丁が盗まれていたんです」
「なるほどね。あなたの家から包丁が見つかっていないことは報告されているよ」
 星野の表情は変わらない。それが照真の思惑を見透かしているようで、何とも据わりが悪かった。口振りから察するに、家宅捜索は行われているのだろう。
「凶器はその包丁じゃないかと思うんです。それなら、俺の指紋が出ることにも説明が付きます」
 照真の力説に、返ってきたのは静かな溜息だ。
「凶器にはあなたの指紋だけが、はっきりと残されていたんだよ」
「それは、手袋をしてたんだと思います。今は冬ですから、普通にしてても変じゃないですし、犯人の指紋がなくてもおかしくないですよ」
「だからね」
 続く星野の口調は、子供を諭すようなものだった。
「手袋をして人を刺すでしょ? 当然、力を込めるわけだから、握ってるところが擦れてしまうよね。そうすると、綺麗な指紋が残らないの。拭き取るのと同じようになるから。
 でもね、凶器にはあなたの指紋がはっきりと残っていたんだよ。これは最後に握り締めていたのがあなただということ。分かる?」
「そんな……」
 理路整然とした説明ゆえに、反論できる隙がない。でも、絶対に照真ではないのだ。照真にそんな記憶はないし、愛する明里を殺す理由だってない。
「でも、俺は明里を助けようとしたんですよ! 救急車だって呼びましたし! ……呼んでますよね?」
 不安になって尋ねると、星野は不審げに片眉を上げた。
「呼んでるね。というか、自分のしたことでしょ?」
「……咄嗟のことだったから、よく覚えてないんですよ。包丁だって、もしかしたら抜こうとして触ってしまったかもしれないし……」
「そんなに強く握るとは思えないけどねぇ」
 嫌味な言い種すら、ちくちくと刺さる。照真は困憊してうなだれた。
 昨日、照真は明里を殺したらしい。そして、ネイビーのPコートの男を証言したらしい。らしい、らしい。照真にそんな記憶はないのに。
 照真の知らない昨日の出来事と、先程も見た昨日の光景。何が本当で、どこまでが事実なのか。考えるだけで頭が痛くなってくる。
 不満は自然と口から漏れた。
「そもそも、なんで俺なんですか? 残って救急車を呼んだ俺より、その場から逃げたアイツのほうが、絶対に怪しいじゃないですか」
「それは証拠の固さの問題だね」
「固さ?」
 照真が聞き返すと、星野の目付きは少し柔らかくなった。
「人的証拠っていうのは脆いんだよ。例えば、あなたがネイビーのPコートの男を犯人だと主張しても、それは身を守るための嘘かもしれない。救急車を呼んだのだって殺意を否定するためかもしれないし、Pコートの男も目の前で人が刺されて驚いて逃げただけかもしれない。だから、それを理由に犯人だと決めつけることはできないんだよ」
 でもね、とその眼光が厳しくなる。
「物的証拠は固いんだよ。例えば、凶器の包丁は新品ではなかった。つまり、誰かの持ち物だったということ。であれば、扱えたのは持ち主だけだ、となる」
「……それが俺ってことですか?」
「まあ、そういうことだね」
 あまりにも短絡的な結論に憤慨する。
「だったら! 俺の包丁は盗まれたんだから――」
「それが脆いと言ってるの」
 食い気味の否定が照真の気概を挫く。
「包丁が盗まれたというのは、あなたが主張しているだけで、それを証明する物的証拠が何もない」
「それは警察が調べてくださいよ」
「だから、調べたんだよ」
 食い下がっても崩れない。星野はやや横柄な態度すら覗かせながら、照真を観察していた。
「一応確認するんだけど、あなたはいつも家の鍵を開けっ放しにしてたりする?」
「そんな不用心なことはしませんよ」
「だよね。今朝も鍵を開けて出てきた」
「えっ?」
 目を丸くする照真に向けて、星野は指で捻る動作をした。
「カチャン、と音がしたね」
 そんな細かいところまで注意しているのか。驚くと同時に、これは反応を見るためだけの質問だったのだと気付く。答えなど初めから知っているのだ。
 照真が苦い顔で黙っていると、星野は話を戻した。
「さて、包丁を盗むには家に侵入しないといけないね。でも、玄関のドアや窓に細工をした形跡はなかった。あなたが不用心でないのなら、あなたの家に入れたのは正規の人間だけだ。
 それで、包丁はいつから無いの? 最後に人を招き入れたのはいつ? あなたの家の鍵は他に誰が持っているの?」
 矢継ぎ早に捲し立てられ、照真は口籠もった。
 家の合鍵は誰も持っていない。最後に友人を招いたのは一か月以上も前だ。当然、そんなに前から包丁が無かったわけではない。
 答えるべく口を開くが、喉はカラカラだった。一度、咳払いをして、唾で潤す。
「昨日の朝、起きたら玄関の鍵が開いてたんですよ。だから、誰かが開けたのか、そうじゃないなら、前の晩は掛け忘れたみたいです」
「今言ったように、ピッキング等の形跡はありませんでした。合鍵を持っている人は?」
「いない、と思います」
「じゃあ、鍵を無くしたことは?」
「……分かりません」
「ということは、なかったんだね。無くしたことがあれば、困ったはずだから」
 確かにその通りだ。
「それで、24日の夜に鍵が開いていることを事前に知っていた人は?」
 ……なんだ、この質問は。
 意図を測りかねて目配せするも、星野は表情を変えず、ただじっと照真を凝視していた。堪らず目を逸らす。
「いえ、たまたまだと思うので、誰も知らないと……」
「じゃあ盗めないね」
 星野はピシャリと締めた。照真の眉が寄る。
「どうしてですか?」
 噛みついた照真に返ってきたのは、言い聞かせるような声だった。
「犯人が包丁を盗んだとしたら、それは目的があったからだよね。今回なら、殺しの罪をなすりつけること。犯人は月宮明里さんを殺害するために、恋人であるあなたの指紋の付いた凶器が欲しかった。ここまではいい?」
「はい」
 照真が肯定すると、星野も落ち着き払って頷いた。
「そうすると、これは計画的な犯行であるはずだよね? だから、家に入るために鍵を持っているか、もしくは鍵が開いていることを知っている必要がある。でも、その可能性は今のやり取りでなくなった。
 じゃあ後は、開いていることを祈りながら何度も行くしかないわけだけど……まあ、そんな不審人物の目撃証言はなかったわけ。24日はたまたま鍵を掛け忘れたようだけど、犯人が盗みに来たのがたまたまその夜で、鍵を掛け忘れる偶然を奇跡的に引き当てた……っていうのは、ちょっと現実的じゃあないよね」
 滔々と話していた星野は、最後にそう結論付けた。照真は押し黙る。
 星野の説明はもっともだ。理屈で言えば、それは正しい。
「……でも、朝起きたら無かったんですよ」
 これだけは揺るぎない真実のはずだ。星野は呆れたように嘆息していたが、照真にはどうしても譲れなかった。
 それこそが、照真が無実であることの証明だからだ。
 照真と警察の犯人像は、すり合わせずに一致した。これを偶然だとするなら、それはもはや奇跡的であり、現実的ではない。だから逆説的に、照真の見た昨日の光景の信憑性は極めて高くなる。
 そうすると、朝起きた時点で包丁が無かったという事実は、照真が包丁を凶器として用いられないという事実に直結する。既に無かったものを使うことはできないからだ。
 凶器の包丁が照真のものである限り、照真は犯人ではあり得ないのだ。

***

「小日向照真さん」
 唐突な女性の声に顔を上げると、そこは手術室の前だった。隣には明里の両親がいて、呼んでいたのは看護師だった。
「警察の方が来られています」
 警察という言葉に、先の取り調べを思い出して、きゅっと心臓が掴まれるような思いがした。
「分かりました。行きます」
 照真は立ち上がり、明里の両親に会釈をすると、看護師に連れられて歩いた。
 歩きながら考える。警察は明里が刺された時の状況を聞きに来たのだと思う。だが、一体何を話せばいいのだろう。
 照真は明里が倒れる場面からしか見ていない。知っていることといえば、逃げた男の服装と、刺された明里の状態くらいのものだ。
 警察は、照真が昨日(つまり今日)Pコートの男を証言したと言った。要するに、知っていることを話した上で、照真は逮捕されたのだ。
 それなら、照真が何を言っても無駄ではないのか。警察は犯行の目撃証言があると言ったが、そんな証言ができるのはPコートの男くらいだろう。そちらが信用されているのであれば、照真の言葉など届くはずもない。
 待合室では、取調室にいた二人の警察官が静かに待ち構えていた。装いがあまりにも場違いなせいで、不必要な注目を集めてしまっている。
「あなたが目撃者の小日向照真さんだね?」
 手帳を翳す星野に、照真は強張った顔で頷いた。あれだけねちっこく疑ってきた相手だ。警戒するなというのは無理がある。
 星野は手帳を仕舞いながら切り出した。
「いきなりで申し訳ないのですが、月宮明里さんが刺された時の状況を教えて頂けますか?」
「はい。えっと……」
 素直に答えようとして躓いた。
 なぜホテル街にいたのか、どう男が現れたのか。照真は本当に知らないのに、ここで『知らない』と言うのはおかしい。現場に居合わせた人間が『知らない』と隠すのは、疚しいことがある時だけだ。
「心中はお察ししますが、捜査にご協力をお願いします」
 警察の睨みが外れたのを感じ取って、照真の緊張は少し緩んだ。今の照真は客観的に見ても、恋人が刺された男であって、容疑者ではないのだ。
 照真は息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐いた。まだ容疑者でないのなら、ここでの話次第で照真の疑われ方は変わるはずだ。
「その、曖昧な部分も多いですが、構いませんか?」
「ええ、もちろんです」
 照真は星野の胸の辺りを見ながら、平静を努めて話した。
「今日は明里とデートをしてたんですが、ちょっと道を間違えて、ホテル街のほうへ行ってしまって。そうしたら、いきなり目の前に男が出てきて、明里を刺したんです。突然だったから驚いてしまって、その間に男は走って逃げていきました。その後は、すぐ救急に連絡して、今になります」
 一通りの話を聞いた星野は「ふむ」と唸った。
「ありがとうございます。その男の顔や服装は覚えていますか?」
「顔は……すみません。一瞬のことだったので、ちょっと……。あ、でも、服装は覚えています。ネイビーのPコートを着ていました」
「ネイビーのPコート……」
 繰り返した星野は、何やら怪訝な顔をしていた。
「あの、何か?」
 聞くと小さくふっと笑う。
「いやぁ、そういう恰好の人、多いでしょう? 絞るのは難しそうだと思ってね」
 そして、じろりと照真の目を覗き込む。
「男の顔に見覚えはなかったの?」
「すみません。気が付いたら逃げていくところだったので……」
「そう。じゃあ何か特徴は? 髪型とか、金髪だったとか」
「えーと、あんまり、その……。でも、金髪ではなかったと思います」
「身長は? あなたと比べてどうだったとか」
「たぶん、同じくらいかと」
「襲われた時、言い争ったりはしなかった?」
「分かりません。何か言っていたような気もしますが、あっという間だったので……」
「なるほど。ありがとうございます」
 言いながら、星野は何やら印字された紙を取り出した。
「では最後に、指紋の採取にご協力いただけますか?」
 指紋という言葉に、照真の体は強張った。凶器には照真の指紋が付いているのだ。拒んだところで照真の得になどならないことは、分かっているけれど。
 ためらう照真に、星野は付け足した。
「あなたの指紋が見つかると思うんですよ。彼氏さんだし、現場にいたんでしょ? だから、あなたが犯人でないことを証明するために、ご協力をお願いします」
 そう言われては拒否できない。照真は観念して、両手の指紋を用紙に乗せた――

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#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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