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創作大賞2024「はらからの恋」二章後編

一章前編はこちら。


「明里さんは、ちゃんと自分を勘定に入れてる?」
 その言葉は、妙に胸元でつっかえた。ひやりと体が冷たくなった気がした。
「違ったらごめん。でも、人目を気にしないのも、投げやりになってるのも、自分のことを大事にしてないから、だったりしない? 明里さんは、ちゃんと自分の幸せを考えてる?」
 言われている意味が上手く掴めなかった。まるで『空を飛べ』とでも言われているかのような。
 だって、無理じゃないか、そんなこと。今まで許されなかったじゃないか。挑戦することも、事実を告げることも、ただ生きていることですら、ずっと責められ続けてきたじゃないか。
 そこにいるだけで人を苦しめる私が自分の幸せを求めるだなんて、そんなことが認められるわけがないのだ。人から邪険にされるべき私よりも、尊重されうる人はたくさんいるのだ。
 皆が大切にしているものを軽視する人間も、皆が軽視しているものを大切にする人間も、どちらも等しく異常者だ。『蔑ろにされている人』を大切にしようものなら、たちまち私は異常者じゃないか。
 私は何かを否定したくて、嫌々をするように首を振る。
「明里さんはもっと自分を大切にしようよ。自分を苦しめるくらいなら、相手を傷付けたほうがいいよ。そうしないと、明里さんが潰れてしまう」
「嫌なの!」
 知らず、大声が出た。それは触れられたくない傷跡。
 指から流れる血、突き付けられた包丁、般若のようなお母さん。
「人を傷付けたくないの! 嫌な思いをさせたくないの! お母さんも、お父さんも、周りの人も、私はみんなで笑っていたいの! 今だって、照真くんを困らせてるのが嫌で嫌で仕方ないのに! でも、私のせいでお母さんが笑えないの。私がいるだけで迷惑なの。だったら、私がいなくなるしかないじゃない! それで済むなら、そのほうがマシなの。分かってよ……」
 喉が震えて呼吸もままならず、私はしゃくり上げるようにして息をする。頭は彼の胸元に押し付ける。全部、全部、押し付ける。
「それだと、明里さんが笑えないじゃないか……」
「じゃあ、どうしたらいいの!? 教えてよ! もう何も分からない!」
 八つ当たりだ。分かってる。
 でも私はもう、雁字搦めで身動きが取れない。
 苦しめたくないから離れなきゃいけないのに、離れることで傷付けてしまう。それでも、これ以上は傷付けないようにと離れるつもりでいたのに、思い切るには私の意思が弱すぎた。結局、彼の逆上を誘って傷付けて、それすらも失敗して、もはや喚くことしかできないでいる。惨めさに押し潰されてしまいそう。
 彼がさっさと呆れてくれたら、この苦しい時間が終わるのに。そんな何にも解決しない無意味な期待だけが、どんどん膨らんでいく。
「明里さんがいてくれたお蔭で幸せになれた人が、ここにいるんだよ!」
 震える大きな声に驚いた。彼が声を荒らげるのは、初めてのことだ。
「いるだけで迷惑だなんて、そんなの嘘だよ! それは間違ってる! だって、僕は救われたんだ!」
 悲痛な叫びに、意識が吸い寄せられる。
「さっきも言ったけど、僕は何かを選ぶのが怖いんだよ。友達だって、恋人だって、そう。だけど、明里さんは僕を選んでくれた。どんな事情があったにせよ、明里さんが選んでくれたから、僕は今、ここにいるんだ。
 クラスに馴染めなくて落ち込んでいた時に、明里さんが告白してくれたから、僕は幸せな時間が過ごせたんだ。僕が明るく見えているなら、それは明里さんが隣で笑ってくれたからなんだよ。
 全部、明里さんのお蔭なんだよ。それを否定しないでよ」
「そんなこと、言われたって……」
 喉がきゅっと窄まって、声が出ない。息ができない。
 理解したはずだった。過去の私の経験を捨てて、照真くんの想いを信じ込めば、今よりずっと楽になれるはずだと。
 なのに、いざその段になってみれば、それがとても恐ろしいことに思えて踏ん切りがつかなくなる。
 だって、これまでの人生で積み重ねてきたもの全てをなげうつのだ。ずっと歩いてきた大地を捨てて、照真くんだけにぶら下がる。
 じゃあ、もし照真くんが手を離したら、その瞬間に私は真っ逆さまじゃないか。そんな、人生を懸けた一か八かのギャンブルみたいな真似、できるわけがない。
 知らず、体が震え出す。ただ彼と向き合うだけで、どうして私はこんなに恐怖を感じなきゃいけない。
「明里さんはたぶん、理想が高すぎるんだよ」
 その指摘には、虚を衝かれる思いがした。
 理想が高すぎる? そんな馬鹿な。だって、私は何も求めていない。いろんなものを諦めて、ただ生きることだけを望んできたのに。
「誰も傷付けないなんて無理だよ。どんなに気を付けていても不可抗力はあるし、相手が勝手に傷付く場合もある。僕だって今、明里さんを傷付けてる」
 反発は立ち消えた。苦しい思いをすることを『傷付く』と表現するなら、確かに私は今、傷付いている。
「それに、家族みんなで笑って過ごすっていうのも、僕は難しいと思う。話を聞く限り、明里さんのお母さんは、明里さんのことが嫌いなんだよ。それから、たぶん明里さんも、お母さんのことは……」
「そんなこと……」
 続きは声にならない。でも、認めるわけにはいかない。
 お母さんはご飯を作ってくれる。掃除も洗濯もしてくれる。そうして育ててくれることに感謝こそすれ、愛情を疑っては道理に反する。私が愛されているのなら、責められる私に落ち度があるのでなければ筋が通らない。私が恩に報いられないような害悪だからいけないのだ。
「いいんだよ。仕方ないんだよ。好きと嫌いは本能だから、どうすることもできないんだ。それは受け入れるしかないんだよ」
 その言葉には、すっと胸が軽くなる心地がした。
 そうか。私は親を嫌いでいいんだ。自分の気持ちに抵抗したって仕方がないんだ。そもそも、お母さんが私を嫌いなんだから、私だけ好きでいるなんて無理な話だ。
 嫌いだったら、仲良くしなくたっていいじゃないか。一緒に笑えなくたっていいし、相手が不幸になったって構わない。嫌いな人の期待に添えないのは当たり前だ。私を嫌う人と笑い合って過ごすなんて不可能だ。
 ああ、そうか。だから私は頑張れなくなったんだ。
 できないことをやろうとしていたから、何もできなかったんだ。成果を得られないから諦めて、叶わないことに慣れてしまって。そうして、何かを望むことすらなくなった。
 それが私の積み重ね。平穏に過ごすために、親の期待に従順で、親の望まぬことはせず、限られた選択肢だけを受け入れて、何も求めずに生きてきた。
 でも、そんな生き方は健全じゃない。だから、照真くんの提案を呑むために捨てなければならない。そう思っていたのに、ふと違う道が開けた気がした。
 過去の積み重ねがあるからこそ、私にはできることがある。頑張ることはできなくても、諦めることならできる。
 お母さんと仲良くすることを諦める。親の期待に添うことを諦める。傷付けないことを諦める。死にたくないという気持ちを諦める。
 そうやっていろんなものを諦めたら、私を縛る窮屈なものがどんどん消えていくではないか。たった1つの綻びから、心のしがらみがほろほろと瓦解していく。
 お母さんと仲良くできなくていいなら、私はもう我慢してへつらわなくていい。親の期待に添えなくていいなら、私はもう自分を繕わなくていい。
『しなくていい』とは、なんて気が楽なんだろう。
 死ぬ可能性はあっても、『生きていられたらラッキー』くらいまで目標を下げれば、気負う必要がなくなる。それなら私は、間違って生きていられた時のことだけを考えればいい。
 人を傷付けてしまうのも仕方のないことだから、それは諦めて、結果を受け入れるなりフォローするなりで手を打とう。
 今まさに傷付けてしまった照真くんに対しても、そうだ。これだけうだうだと否定して傷付けて、それでも隣にいてくれる彼に応えられないなら、それこそ私は害悪だ。
「照真くん。さっきは酷いこと言って、ごめんなさい」
 泣き顔は見られたくなくて、顔は伏せたまま。そうでもしないと、弱い私はきっと、何も言えなくなるから。
「……好きなの。照真くんのこと。どうしたらいいか、分からないくらい」
 初めて口にする『好き』は、打算の告白とは比べ物にならないくらい緊張した。返事なんて分かっているようなものなのに、その答えを聞くまでの時間が限りなく長く感じる。
「嬉しいよ、ありがとう。明里さんが肯定してくれたら、僕も自分をもっと信じられる気がする」
 今になって思う。照真くんも似た経験をしているなら、彼も私と同じように、どこかで土台が揺らいでいたのだ。それは私に支えてあげられるだろうか。
「もし、私が死んだら、ごめんね」
「怖いこと言わないでよ。それに、それは明里さんが謝ることじゃないでしょ」
「でも、照真くんを悲しませると思うから」
「僕が悲しむのは僕の都合だよ。明里さんのせいじゃない」
 ふわりと胸が高鳴る。
 ああ。ああ。
 自分を偽らず、人から責められず、素直に向き合って、それが受け入れられる。
 なんて夢心地。

***

「どこに行ってたの!?」
 玄関を開けた途端にぶつけられる怒声に竦んだ。
「いきなりいなくなったら心配するでしょう! ただでさえ怪我してるんだから!」
 ごめんなさい、と反射的に謝ろうとする衝動を、私は抑えた。
『明里さんはもっと自分を大切にしようよ』
 照真くんに言われた言葉を反芻する。私はもっと、自分の感情を大事にするべきなのだと思う。
 お母さんは私を貶す理由を探しているのだ。この人が私を心配するだなんて、天地が引っ繰り返ってもあり得ない。心配しているとすれば、自分の疚しい行いが明るみに出ることを、だろう。
 黙っていると、たちまちにお母さんの顔が険しくなった。その口が開く直前に、ひょっこりと出てきたのはお父さんだ。
「まあまあ。無事だったんだから、そこまで言わなくてもいいだろう」
「でも、あなた」
「明里も、次からはきちんと言ってから出ていくようにな。本当に心配するんだから」
 その言い種に、結局私は黙ってしまう。
 心配とは便利な言葉だと思う。それさえ言えば、子供は申し訳なくなって反論ができなくなるのだ。それが子供からの信頼を担保にしているとも気付かずに。
 大人はずるい。
 私の言葉はどれだけ正しかろうと、子供のたわ言としてまともに受け取らない。それなのに、自分たちの言葉は自分が親だというだけで、どんな無理難題であろうとまかり通ると思っている。
 きっと彼らは勘違いしているのだ。子供一人の権利をその手に握ってしまったから。自分がいなければ生きられない弱い立場の人間を産み出してしまったから。

 眠る頃になると、今日はいつもより目蓋が重かった。いろんなことが起きすぎて疲れたのかもしれない。それでも、快い疲労感だった。
 意識が飛んで、病院で目覚めて、照真くんに会いに行って、たくさん話して、いっぱい泣いて。そうして、新しいフィルターを通した世界は、今までとは少しだけ違って見えた。
 たぶん、私は視野が狭かったのだ。
 進む道は1つしかないと思い込んでいた。家族という居場所は人生にとって何よりも重要で、決して失ってはいけないと。その観念に囚われすぎて、私は壁に向かって歩いていた。
 だけど、落ち着いて周囲を見回せば、他にも道はあったのだ。私を信じてくれる人はそばにいた。その存在に気付けばいいだけだった。その可能性が、途轍もなくファンタジーなことではあったのだけれど。
 それでも、見つかった。
 照真くんから借り受けたロープを腕に通す。ベッドはないから、もう一方は箪笥の取っ手に引っかけた。
 布団に入る。腕に通した輪っかに手を添えると、照真くんが守ってくれている気がした。
 眠りに落ちるのは、あっという間だった。

***

 そこは深海なのだと思った。真っ暗で何も見えず、息苦しかったから。
 深海の苦しさに気が付いた時、私は自分の居場所がここではないのだと悟った。もっと明るくて息のしやすい場所があることを、私は知ってしまったから。
 不意に体が軽くなって、浮き上がる心地がする。暗がりの閉塞感が消え、呼吸を妨げる圧迫感も消え、もう少しで自由になる。
 その最中、何かが私に絡みついて押し留めた。光が遠のく。意識が薄れる。息ができない! 喉が焼けるように痛い!

 苦しさに喘いで目を覚ますと、ぼんやりとした視界に何かが迫っていた。そこから伸びる2本の棒が、私の喉を押さえつけている。
 咄嗟に腕を振るうと、何かに引っ掛かって「ガン」と大きな音を立てた。引っ張られた手首が痛い。横からの音で目の前のモノの注意が逸れた隙に、私は全身のバネでソレを押しのけた。
「げほっげほっ」
 咳き込みながら起き上がる。辺りは真っ暗だった。目の前には人影がへたり込んでいた。それはお母さんだった。
 お母さんは私の腕をじっと見ていた。腕から伸びたロープは箪笥の引き出しを開けていた。それが私とお母さんとの間に線を引く。
 このロープは明確なメッセージだ。
『私はあなたを信用しない』
 お母さんは動かなかった。だから、私も動かなかった。
 その時、どたどたと慌ただしい足音がしてドアが開いた。点けられた明かりに目が眩む。顔を出したのはお父さんだった。
 お父さんと目が合った。その目がお母さんに向かい、釣られて私もお母さんを見た。お母さんは顔を伏せて、そして、いきなり泣き出した。
 わあわあと声を上げて、赤子のように泣きじゃくる。
 衝撃だった。
 四十も近い大の大人が、こうまで憚らずに泣きじゃくるのか。
 その無残な姿を見ていて、自分の中で何かが急激に冷めゆくのを感じた。この人に対して持っていた怒りや憎しみ――恐怖の感情が、瞬く間に失せていく。
 なんでアンタが泣くんだよ。泣きたいのはこっちだろ。
「何があったんだ……?」
 お父さんの間の抜けた質問には笑いすら込み上げてくる。
「首、絞められた」
「……本当か?」
 その確認にも、お母さんは泣くばかりで答えない。
 自分の始末くらいは自分で付けろよ。そのくらいはやれよ。
 やがて、お母さんはお父さんに引きずられるようにして、部屋から連れ出された。私は一人、ぽつんと取り残される。灯されたままの照明が、いやに眩しかった。
 ロープを外して、明かりを消して、再び布団に潜る。
 横になった途端、堪えきれなくなって、私は噎び泣いていた。
 悲しかった。親に殺されかけたことが。殺そうとする人間が母親であることが。失敗したら泣きじゃくって逃げる幼稚な人間が母親であることが。そんな人間と良好な関係を築こうとしていたことも。そうした努力は無意味なのだと、眼前に突き付けられたことも。
 この期に及んで、私はまだお母さんに期待していたのだ。母親というものは子を愛するものなのだと、幻想を信じていたかったのだ。
 未練がましくも心の底で願っていたのが惨めで、裏切られるなんて当然の結果に打ちのめされたのが愚かしくて、吐き出したい激情をぶつける先がどこにも見当たらなくて。
 私は声を殺して泣いた。
 いつの間にか眠っていた。

 翌朝、リビングに向かうと、そこにお母さんの姿はなく、お父さんだけが座っていた。
「お母さんは当分いないから」
「……なんで?」
 思わず漏れた「なんで」は、何に対する疑問だったのだろう。
 お母さんがいなくなった理由? お父さんが落ち着いている理由? それとも、状況の変化が急に起きた理由?
「昨日のことがあって、そのままにはしておけないだろう。今後どうなるにしても、冷却期間は必要だと思うし」
 どうやら、お父さんなりに私とお母さんとの悶着の対応を考えてくれたらしい。
 でも、どうして急に? この人にそんな配慮はできないはずだ。誰かの口添えでもなければ。
 顔を窺っていると、お父さんはそっと目を伏せた。
「お医者さんに言われたんだ。階段から落ちた怪我じゃない、と。だから、不審なことがないか気を付けろ、と。で、昨日のことが起きた」
 ああ、と思った。見る人が見れば分かるのだ。この人が愚鈍なだけで。ちゃんと見ている人はいるのだ。この家にいないだけで。
「なあ、明里。他にも何か、されたことはあるか?」
 聞かれた瞬間、かっと頭に血が上って、涙が込み上げてきた。迸るのは悔しさだ。
「何言ってんの!? 私、言ったよね!? 包丁を突き付けられたって! でもお父さん、勘違いだって聞かなかったじゃない! ずっとずっと貶され続けて、でも誰もお母さんを責めないから、全部私が悪いことになって! そうするしかなかった! ずっとずっと我慢してきたのに、今更何言ってんの!?」
 訴えても聞かなかった癖に、今更、初めて問題が起きたみたいに。その時にまじめに聞いてくれていたら、いろんなことを諦めずに済んだかもしれないのに。
 結局、この人にとっては、私の痛みも思いも健やかさも、取るに足らないものでしかないのだ。だから、目の前にあっても見ないでいられる。
 お父さんのショックを受けた顔が癇に障る。
「何その顔。傷付いていいと思ってるの? 今までずっとここにあったんだよ! お父さんが見てこなかっただけで!? 知らなかったで済むの!?」
「……ごめん」
「謝って済むの!?」
 なじると、それきり何も言わなくなる。
 強張った顔での場当たり的な謝罪が憎い。憎くて憎くて拳を握る。歯を食い縛る。
 それでも、どうすることもできないのだ。
 起きたことに取り返しは付かない。ここでお父さんが心を込めて謝罪したって、過去に戻ってやり直せるわけじゃない。目の前から追い出したところで、私には保護者が必要だという壁にぶち当たる。
 こんな人間でも、いてもらわないと困るのだ。それが堪らなく悔しい。
 だけど、希望は見える。
 高校を卒業したら、逃げればいい。それなら、あと3年だ。いつ死ぬか、怯えながら暮らした過去に比べたら、死ぬ恐怖のない3年という期限は遥かに短い。
 今はそれだけを追いかける。先のことは、それから考えればいい。私はまだ、生き始めたばかりだ。

***

 それからの日々は、目まぐるしく移ろった。
 まず、お母さんは実家に送還された。本人は泣きながら拒んでいたが、そこはお父さんが押し通した。母方の実家は飛行機の距離にあるため、もう関わり合うことはないだろう。
 お母さんは実家で虐げられて育ったらしい。だから、逃げるように上京してきて、そこでお父さんと出会ったのだそうだ。口説いたのはお父さんからで、お母さんは居場所を得るために受け入れたとのこと。要するに、必ずしも愛情を持っていたわけではないのだ。
 そうして新たな居場所を手に入れたものの、すぐに私を妊娠してしまったことで自由を謳歌できなくなった。そのことで私を苦く思っていたのもあるし、自分が虐げられて育ったのに私が愛情を注がれて育つのは納得できない、という感情もあったらしい。
 それが、私が恋愛を謳歌しているように見えたことで我慢ならなくなり、私を突き飛ばした一件に繋がる。そして、ばらされるのを恐れて思い詰めてしまった、と。
 お父さんは、お母さんに惚れ込んでいたから目が曇ってしまっていた、という単純な話で、それこそ『幸せな家庭』という幻想に浸って、何も見えなくなっていたようだ。
 話を洗い出してみれば、そういうことになった。
 全部、私には無関係な事情だ。
 その後、私はお父さんと共に、お父さんの実家でお世話になることになった。
 何せ、二人ともまともに家事ができない。家のことはお母さんが取り仕切っていたから余計な手出しはできなかったし、何より私は、包丁を握ると自分があの日のお母さんになった気がして震えてしまっていた。
 お父さんの実家では、お祖母ちゃんが出迎えてくれた。開口一番の「大変だったなぁ。もう大丈夫だからなぁ」と淡く涙を浮かべる姿には衝撃を受けた。人が違えばこんなにも私に対する態度が違うのかと、しみじみと思ったものだ。
 その裏で、お父さんはお祖父ちゃんに絞られていたけれど、その姿を見て、私は少なからず安心した。この家では、過失があれば叱られるという道理がまっすぐに通っている。素直に叱られているから、お父さんも鈍いだけで悪い人ではないのだと思う。
 ちなみに、元の家からは駅2つ分離れただけなので、高校にはそのまま通うことができた。ありがたい話だ。

 こうして、私を取り巻く環境は、あっさりと塗り替えられた。
 何年耐えても改善しなかったのに、ふとした拍子でころんと引っ繰り返ってしまった。きっかけ1つで世界が変わる出来事は、決してファンタジーではなかったのだ。
「明里さん、おはよう」
 駅を出たところで待ち構えていた照真くんに挨拶を返す。私の顔を見ただけで馬鹿みたいな笑顔になる彼を見ていると、なんだか悩むのが馬鹿らしくなってくる。
 このきっかけは何だったか。振り返ってみれば、私が彼に告白したのが始まりだ。動機はどうあれ、それをきっかけに事態が好転したのだから、私が勇気を振り絞ったことには確かな意味があったのだ。
 これは私の挑戦で、私の手にした成果だ。私の行いは、決して無駄ではなかった。
 支えてくれる仲間はいた。運命を変える出会いもあった。そうしてフィクションが現実になるごとに、他の空想も実現しそうに思えてくる。充実した恋愛も、幸せな家庭も、きっとある。

 私は努力が苦手だった。
 嫌いなのではなく、意義が見出せなかった。
 だけど今、確かな地面に立つことのできた私なら、
 少しだけ頑張れそうな気がした。


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