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暇だから生きている

床に就こうと、というかもう眠りに入ろうとした時だった。

変化とは恐ろしいもので、

刹那とも言える疑問をそのまま沈殿させず、引き留めてしまうようになってしまっている。毎日毎日、哲学書を読んでいるせいだろうか。

件の疑問というのが、

人は生きているから暇なのか、それとも

人は暇だから生きているのか、というものだ。

もしかしたら、前者の方を真っ先に正しいと思うかもしれない。でも少しストップ。

かの老子だったか忘れたが、「真理は矛盾しているように見えるものだ」と言っていた気がする。

ではこの疑問について考えていこうかな。

もし、「生きているから暇」なら

ではこちらの場合から見てみよう。

「生きる」というものが、どのように「暇になる」というものを可能にするのか。つまり「生きる」から「暇になる」条件は何か?

では

生きるとは、ではそもそもどのような状態だろうか。

今回の場合は、息をしているという身体的な特徴からではなく、諸所の活動をしていると考えた方が自然そうだ。

というのも、結果としての「暇になる」は、すべきことの消失、もしくは人間の行い得る活動が十分に達成された状態を指していると考えられるからだ。

人間が行いうる活動は、いつもお世話になっているマズローさんの欲求段階説の基づけば、

生理的、社会的、安全、承認、自己実現に分類することができる。

しかし、ここで少し厄介なことが出てくる。五段階目の自己実現欲求は、欠乏欲求と言われているもので、達成されることが無いと言っても過言ではない。

つまり。自己実現欲求に達した時、それと同時に、それを満たすために永遠に動き続けると言えるということになる。

では、先ほども書いた通り、生きることが諸々の活動を行うことであるならば、暇になるという状態に結実するとは、論理上考え難い。


暇だから生きているのか

では次に、「暇だから~」の場合について考えてみよう。

この場合の「暇」をどのように条件づけるのかが問題となって来る。

先ほどのように、すべきことの消失、もしくは人間の行い得る活動が十分に達成された状態を指すのであれば、そもそも「暇だから~」という状況自体が想的できないことになる。

う~ん。

どうしよ。

ここで「暇」と検索窓に打ち込んでみた。すると、「暇」は「何かと何かの間の時間」という意味を持っているようで。

となると、暇の次の時間には、何かしらの行動が予定されていることになるから、私が条件づけた「すべきことの消失、もしくは人間の行い得る活動が十分に達成された状態」と若干違ってくる?のか。

いや、あくまですべきことが消失しているだけであって、次になにもすべきこと無いとは書いていないから条件として適切か?

ここで一度整理しておこう。

一つ目

「生きている➡暇」

これは、諸所の活動を行った次に、暇ができるということになるが、人間の活動には際限がないと考えるとうまく行かない。

二つ目

「暇➡生きている」

暇とは、すでに何かを終えた状態を指しているのでるから、そこから諸所の活動を行うということは不自然には見えない。


あら。行き詰ったぞこれ。

「生きている➡暇」という流れが成り立たない、しかし「暇➡生きている」という流れが自然だが、そもそも「暇」が何かしらの活動を前提しなければならなくなる。

となると、「マズローの欲求段階説」を前提としていることが原因が問題なのか。

自己実現欲求が欠乏欲求であっても、そもそもそこまでにたどり着くという前提がおかしい。なにより、この五段階の行動が連続的に行われるわけではない。

承認欲求を満たしたら、その次に「眠る」という行動をとっても不自然ではない。

生きているから暇?

行動と行動が不連続的であるなら、その間つまり暇があっても不自然ではなくなる。

となると、生きているという行動自体に「暇」が内包されていることになり、

「生きている➡暇」という流れは十分にあり得る。

そしてそれと同時に、「暇➡生きている」という流れも「暇」という言葉の語義より認めることができる。

何かをしないということは、何かをするという前提から生じていると考えればそう難しいことでもなかったか…


こんな文章を書いているが、何だか無駄なことをしている感が否めない。

でも一つ、生きていれば暇であり、暇であれば生きているということを再確認?することが出来た。

「真理は矛盾しているように見えるものだ」という言葉は、少しはあっていたかな・・・?

今日も大学生は無駄に潜考している。


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