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注意散漫マルチウェイスティング

本を読む時は大抵、本だけを読むということはない。イヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴きながら、気になった箇所を書き留めるためのノートやipad。或いは、ノートパソコンを起動している時だってある。本だけを読みつづけるというのは、どうも苦手らしいというか、ながら読みをしていることの方のほうが良い事に気が付いた。

これでは、まるでワタシがスマートフォンみたいだ。バックグラウンドでは、複数のアプリケーションが起動し続け、どの機能にも素早くアクセスすることが容易。常に複数の機能と共に、それがサブかメインかの違いしかない。本を読みつつ、他のデバイスやメディアと共にあるのは、ある意味では非常に注意散漫とも取れる空間に思える。というか、生活そのものがスマホ化しているといった方が、いいだろうか。

本だけを読むことが、こんなにも難しいなんて、とさえ感じられる。本を読むことに慣れたかと思えば、ずっと字にを遣っているのは疲れる。というか、ただ読んでいたのでは入る内容も、読める行間も読めないというもの。生物は、常に同じことはしない。
睡眠の時間と、起きている時間。
昼と夜。
夜明けと日暮れ。
時間の模様が変化するようにということと似たことが、読書に当てはまるような気がする。引っかかる文や表現を見ると、パタンを本を閉じて、今までの頭の中の記憶や、外部に保存してきたものと比較したりなんなりで、色々考える。もちろんその場ですぐ理解できるということは多くはないが、引っかかりを無視してしまうような読みよりは、幾分かマシだとは思う。

ワタシの読書は、注意散漫だ。黙読して分からなければ声に出してもう一度読み返す(だから図書館で読書するのは苦手だ)。
付箋は貼りまくり。
貼りつけた付箋にメモもする。
参考になりそうな著書や人物やすぐに書き留める。
自分の知っている考えとどう違うのかをいちいち確認。
気になった言葉はすぐネットで調べたりもしてしまうのなんてしょっちゅう。
なるほどだからワタシの読書には、時間がかかってしまうのだろうね。本を読んでいる時間を絵で描くとするなら、一枚のページの間に別の行動という材料が挟まっているサンドウィッチみたいなものだろうか。

これが有用なのかはわからない。ただマルチウェイティング(壮大な無駄)しているだけかもしれないという傍からの目があるのかもしれないという憶測は、ただ「読書(といっても、本を読んでいる”だけ”とは言えない。)」の際には消えてしまうだけ。ただ全部が全部、そのような読みになってしまうといけない気がする。本だけを携えて、どこでにも行くことが出来るというのは、ワタシの場合の「読書」だと難しくなってしまうから。

夥しいほどの付箋と栞。数多のコンピュータと、いくつかの筆記用具に、積読中の別の本たちに囲まれた読書は、忘れないための読書という点では良いのかもしれないけれど、時には二宮金次郎のように、歩きながら、悠々と(?)読書が出来ればなァと思う。あ、でも、彼も薪をしょいながらだから、この人も「ながら読み」には違いないが、ワタシのよりは、幾分か集中して(しまって)いるように思えるから、見習わないといけないかもね。





今日も大学生は惟っている




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