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赤信号は気をつけて渡れ

同じ空、違う空気

上京、そして大学に進学してから、周りと自分との間にギャップを感じるようになった。金銭感覚、言葉遣い、教養、価値観。もちろん、東京に住まう全ての人たちに対してではないけれど、少なくとも私の周りの人たちの大半と、私とでは人間の質、というか、「育ち」が違うように感じる。

少しレベルの高い授業に出ると、留学経験者がゴロゴロいて、皆英語がペラペラだったりする。「父の仕事の関係で、小さい頃は海外に住んでいました。」なんて話が、そう珍しいことではないと知った。

私よりも成績の低いクラスメイトが、私よりも日本の政治について詳しかったりする。詳しいね、好きなの?と聞いてみたけれど、どうやらそういう訳でもないらしい。そう?普通でしょ、と何でもないように言われてしまった。

自分の目の前に立ちはだかる“普通”のハードルがぐんと高くなる。英語ぐらい少しは話せて当たり前、政治なんて難しいことはわかんなくても、今の政権のことぐらいはわかるでしょ、と、そういう世界に私は流れ着いてしまったらしい。

褒められて伸びた私の剪定

身内にほとんど大卒がいない私は、東京の大学へ進学するというだけで親戚中からもてはやされた。高校時代の成績はまちまちで、大学だって特段良いところに受かった訳ではないのに、優秀な子として扱ってもらえた。これが私を勘違いさせてしまった大きな要因。その生ぬるい世界からからひと足出れば、そこでは私はただの落ちこぼれだった。

これは自分の生まれ育った環境に対する不満でもなければ、生まれ持って育った人達への恨み言でもない。自分はなんて小さな人間なのだろうという情けなさと、これまでの尊大な自分を恥じる気持ち、ただこれだけ。むしろ、ぬるま湯にいつまでも居座って、ただ老いていくだけの人生じゃなくて良かったとさえ思う。

…ただ、ここで生きていくと決めたからには、これまで周りから褒められに褒められて大きく育った、私の自己肯定感に傷をつける覚悟を決めなければならない。実力の伴わないプライドほど醜いものはない。これは、意味のある剪定作業だといえよう。かさぶたができるまで、痛みは続くだろうけれど。

赤は止まれ

「あっ!あの人、今、赤信号渡ってった。私、ああいうの嫌いなんだよね。」と、赤信号を待つ私の隣で大学でできた友だちの女の子が言う。それから、「両親から言われてこなかったのかな」と続ける。…私も、結構やっちゃうな、そういうの。なんて言い出せるほど、私は強くなかった。

──赤信号にもかかわらず、私の手を引いて横断歩道を渡る母。「いいの?赤だけど。」と私は聞く。「いいの、赤は気をつけて渡れって意味なんだから。」と母は平然と応える。そんなわけないと知っていたけれど、これでいいんだと思えた。別に、誰に迷惑かけるわけじゃあるまいし。

別に、いやほんとに、別にこんなことはどうだっていいのだけれど。それでもなんだかあの子の言葉が引っかかる。「お前は信号も守れない程度の人間なのだ」と暗に言われたような気持ちになる。

自己肯定感を少々切り捨てすぎたのかもしれない。こうやって、何でも自分のコンプレックスに結びつけて、勝手に落ち込んでしまう癖ができてしまった。

うう、塩梅が難しい。考えれば考えるほど憂鬱な気持ちになってしまう。こうして文字に起こせば少しは落ち着くかと思ったけれど、どうも上手くいかない。それどころか、こうしてダラダラとまとまらない文章を書いていることさえ嫌になってきてしまったので、ここら辺で終えるとする。

こういう日は、全部気圧のせいにして寝ようね。




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