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絵に詳しくない自分がフェルメール展に行った話

先日、誘われて美術館に行ってきた。美術自体は詳しくはないが嫌いではないし美術館の雰囲気なども好きな方だが、わざわざ見に行くとなるとなんとなく自分の中での優先順位が下がってしまうのが美術館や映画館だったりする。そんな程度の感覚の自分が『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』を見に行ってきた感想を綴っておこうと思う。

芸術と音楽は似ていて

全体として感じたのが「芸術と音楽って似ているなぁ」ということ。
並んでいる絵画たちは17世紀に描かれた物。もちろん今のようにすぐに写真を撮ってアップして、みたいな世界ではない。そんな世界に住んでいると忘れがちになるが、建物や物などの静物はともかく風景や人物などは特に、恐らくだがあるていどの短い時間しか実物を見る事はできず、実際に絵を描く工程のほとんどは自分の頭の中に入れた実物(あるいはその場で書いた下書きやスケッチ)などを骨組みにして形作ったり構成したり色を載せたりしているんだろう。だからこそ、描いた本人の感性や視点、価値観、理解、解釈、表現力などのフィルターを通してひとつの作品として出来上がる。そこが恐らく価値やオリジナリティのある部分なのだろうと思う。
一方で音楽。少しだけかじっていた程度の音楽だが、あれも音大に行くようなレベルになると、特にクラシックなんかはそうだった記憶があるのだが、楽譜は一つの言語であり骨組みでしかないのだと感じていた。楽譜から読み取れる曲を骨組みに、作者の情報やその当時の時代背景、どんな想いを込めて作曲したかなどその背後の情報も含めて曲を理解し、それを自分はどう表現するか、が大事なんだろうなぁとぼんやり自分なりに理解していた。だからコンクールなんかは同じ課題曲をほとんどの人がミスなく弾いていたとしても評価に差がつけられるのだろうなと。
つまりは人。ひとつのものに対して幾重にも表現者の理解や解釈が積み重ねられ、表現者の技術によって形になる。出力の方法や巧みさにばかり目が向きがちだけれど、そこに介在した人に価値がおかれているんじゃないかな、その点で芸術と音楽は同じなのではないかな、そんなことを考えていた。

芸術と学問も似ていて

今回のフェルメール展の構成には、聖書の登場人物を描いた作品も登場している。その章に付けられた解説を読んでいた時に「うわうわ、これって論文書く時に考えてたのと一緒じゃんww」と勝手に当時の画家たちに親近感を持ったのだ。
恐らくそれはこのような解説だったと思う。うろ覚えだけれど。「当時の画家たちにとって宗教画というのは難易度の高いものだった。宗教という目に見えないものをどう描くかといったことには高等な技術が必要とされていた。そのためこれから世の中に出ていこうとする画家たちは意識的に宗教的なテーマを取り上げて作品を描き、世の中に自らをアピールしていった」
これ。自分が大学院に居た時も、特に博士課程の時なんかは、どのようにアピールしていけばよいかという事を考えていた。私の研究テーマがちょっと独特だったというのもあって院生全員にあてはまるわけではないだろうが、自分の研究したいものがあって、書きたいことがあって。それをどうやって論文という形におさめるか、それをどうやって既存の学問の流れの中に位置づけるか。また先生達には自分がこれだけできるよ、ということをアピールしていかなければならない。そのためにはこういった形のものを書いた方がいいんだろう、こういう学会に発表した方がいいんだろう、こうやってパワーポイントを作った方が伝わりやすいんじゃないか。その時の感覚が思い起こされた。
美術も学問も、なんでもそうかもしれないが、好きな事を好きにやっているだけでは、資金に余裕がある人やめちゃくちゃ浮世離れした生活でオッケーな以外は食っていけない。成果として出にくい部分をいかに成果として他者やパトロンとなる者を少しでも納得させる形でアピールしていくか。その試みを読み取ったことで、17世紀の画家たちと現代の自分の距離が一気に縮まった気がした。

描き出される空気感

今回美術展に入って一番に驚いたのは初っ端に展示されていた女性を描いた作品のスカートの質感だった。手元にある一覧を見ると恐らくヘラルト・テル・ボルフ作の『白繻子のドレスをまとう女』だろう。背景が暗い色彩で塗られていることもあってか、白いサテンのスカートの光沢や質感、浮き上がりぐあいがまさに「本物がそこにある」感じで、視線が惹きつけられたしどうやったらこんなものが描けるのかと考え込んでも理解が及ばないくらいに圧倒された。隣に展示されていた同じヘラルト・デル・ボルフの作品(恐らく『手を洗う女』のスカートも同じくものすごい質感だったので、恐らくこの作者は白繻子を捉えたり描くのがかなり得意だったんだろうなぁと思いながら見ていたのだが、解説を読みながら展示されている絵を見ていくと、かなり作者によって雰囲気が違ってくる。服はリアルなのに表情や顔がなんだかぼんやりしていたり、人物は細かいのに背景はぼんやりしていたり、かと思えば人物も背景も細かく書き込まれていたり。最初は筆と絵具で書いているから細かい所は大変なのかな。気力が続かなかったのか、描きかけの可能背もあるし、あぁそうか、どこに焦点を当てて描いたか、見ているものに注目してほしいかによっても背景省略したりするよな。などと思っていたが、ある一枚の風景がを見た時にその解釈が少し変わった。恐らくフィリップス・ワウウェルマン作の『燃え上がる風車の前の騎馬戦』。絵のあちこちから煙があがり、空も含めて全体的にくすんだ茶色ぼやけている。それを見た時に「そうか、空気だ」と気付いたのだった。この戦いの絵では当然土埃や煙などで空気自体がすすけている。その空気を絵にしたときにこういう表現になるんだろう。とすれば。焦点の当て方もあるだろうが、当時はコンクリートで道が舗装されていたわけではない。地面は土だ。そして室内でもそんなに空気が綺麗じゃなく煙ったようなところもあるかもしれない。その空気感を表していた、もしくは表れていたのかもしれない。
現代の世界から、ましてやあんまり詳しくない分野のものをみると特にそうだが、自分でも気づかないうちに自分の中の”当たり前”を持って対象を捉えようとする。それがダメだといいたいのではない。むしろ謎解きでもなんでもそうだが自分の予期せぬ瞬間にその”当たり前”が剥がれて他の可能性を見付けた時、アドレナリンが出るぐらいの楽しさを覚えるのだと思う。

自分の”モノの見かた”に気付かされる

フェルメール以外のたくさんの絵画が展示されていた今回の絵画展をみた中で、やはり自分の惹かれる絵というものは出てくる。自分であれば、より鮮やかなもの、よりはっきりとしたもの、コントラストの高いものがどうやら好きみたいだ。それを実感したのは静物画、ヤン・デ・ヘーム作の『花瓶と果物』を見た時だった。解説によるとヤン・デ・ヘームはその隣にあったコルネリス・デ・ヘームの父親だそうだ。コルネリスも父と同じく静物画を描いている。この二つを見比べた時、自分の好みは圧倒的に父のヤンの作品の方だった。コルネリスの作品は父の作品と比べてやや彩度が低く、やわらかい感じがした。一方父ヤンの作品、特に『花瓶と果物』は、背景がほとんど暗闇に沈み、花瓶の置かれている台さえも半分暗闇に消えかかっている。その中で、恐らく光源などを考えるとリアルではないのかもしれないが、色鮮やかな花々が浮かび上がるように描かれている。この鮮やかさが自分の好みだった。
絵画展には今回で言うフェルメールの作品のようなメイン作品の他にも様々なテーマでたくさんの作者によって描かれた作品が展示されている。「フェルメールを見に行った」、とはいえたくさんの絵を通して観ることで、自分の好みや惹かれるポイントなども露わになってくる。
結局私は最後、今回の目玉作品であるフェルメールの『窓辺で手紙を読む女』に加え、ヤン・デ・ヘームの『花瓶と果物』、ワルラン・ヴァイヤンの『手紙、ペンナイフ、羽根ペンを留めた赤いリボンの状差し』、エマニュエル・デ・ウィッテの『アムステルダムの旧教会内部』のポストカードを気に入って購入し、持ち帰ることにした。特にワルラン中ヴァイヤンの状差しに関しては、マグネットとクリアファイルも購入したくらい気に入ってしまった。この作品も比較的陰影がはっきりしており、色だけでなく物の形もはっきりしている。すこしミニチュア感というか騙し絵感のようなものもある。
こうしてたくさんの作品を、それも自分が気に入ったものだけではなく様々な作品を、解説や背景もすこし付けてもらって鑑賞する経験、それが美術館をわざわざ訪れて鑑賞する意味のうちのひとつなのだろう。特に今の自分のようにある程度好き嫌いや判断基準がはっきりした状態で行くと、あまり知らないジャンルでもあるていど味わい、「好み」という形でその世界へのとっかかりを作ることができ、また自分自身の輪郭をなぞり確認することにもつながってゆく。

ネット世界の鮮やかさ

時々自分も趣味程度にデジタルで絵を描くことがある。人物模写だったり簡単なキャラクターを描いたりその時の興味に従って様々に。また素敵だなと思う風景や飼い猫を写真に撮り、色合いやサイズを加工してオンラインにアップすることもある。そこで感じるのはネット世界の鮮やかさだ。ネットの世界には上手なイラストや絵を描く”絵師”さんが腐るほどいる。そのほとんどが、よりリアルで、より鮮やかで、よりはっきりとした、ほとんどがわかりやすい描き方をしている。今回の展示でみたようなぼんやりとした、ほの暗いような、ひとつの絵の中に焦点とそれ以外が描かれるような作品はほとんど見ないように思う。
以前ネット上でこんな感じのつぶやきか何かを見た記憶がある。
「若者は撮った写真をインスタなどにあげる際、彩度をあげたり加工してアップする。若者の眼には世界はこんなに鮮やかに映っているのかと驚いた」
おそらく、そうでないとたくさんの情報があるなかでは目にとまらないから、などと色々な理由があると思う。ただ、私もそちらを好むように、陰影がはっきりし、輪郭がはっきりしていたほうが何かとわかりやすい。明確だ。飛び込んできやすいし印象に残りやすい。ネットの中のスピードの早い、一部分しかやり取りのできない、なんでもすぐに消費される世界ではそちらのほうが情報の取捨選択に役立つ。暗闇の裏側にあるものは気になるが、それですら「本当はこうだったんだよ」とはっきり断定して教えてもらうほうが頭のリソースを無駄に割かなくて済む。
それでも今回フェルメール展に行って考えたのは、本当は自分だって、ひとつの形をつくりあげるために何日もかけて感じ、考え、解釈し、キャンパスの上に少しずつ絵の具を重ねる、そんな時間が必要なんだろうなということだった。
そんな行為がなんだか自分の腹に重心をとりもどしてくれる、そんな気がしている。

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