『SSSS.DYNAZENON』を最後まで見たので感想・考察 自由って、なに?

 『SSSS.DYNAZENON』を最終話(12話)まで見たので、思いついたことを書こうと思う。

 付き合い始めた夢芽と蓬の青春描写に八割くらい視聴後の気持ちをもっていかれた。呼び捨てのくだり無茶苦茶好き。蓬と夢芽が付き合っている様子を見るだけで色々あったけどこれでよかったんだなと思えてくる。青春。ガウマと過ごしたあの非日常の日々は、ガウマがいなくなった後でも、Sという痣とともにいつまでも4人の心に残り続けるんだなと思うと、緩い繋がりは良いものだと思えてくる。


シズムの「自由」、蓬の「不自由」って、なに?

 怪獣使いの素質の核心に「自由」への指向性という要素があるということが手を変え品を変え作中で提示されていたと思う。真の怪獣使い、最強の敵として描かれたシズムは、あらゆるものからの「自由」を常に求めていた。シズムに怪獣使いの才能を見込まれていた蓬は、家庭からの自立を求め、バイトに勤しんでいたのであった。このことは、他者と関係を築くなどして「不自由」になってしまえば、怪獣使いでなくなってしまう、という元の命題を反対から捉える形で提示されてもいる。「ガウマが怪獣使いでなくなり、人に戻った理由がわかった。今の君たち(告白する蓬と告白される夢芽)と同じなんだ」(11話)。
 ここで疑問が生じる。蓬はなぜガギュラとの戦いにおいてインスタンス・ドミネーションを成功させることができたのであろうか。というのも、11話終了時点で蓬はガウマと同じとシズムに明言されており、ガウマと同じく怪獣を支配する能力を完全に失っていると考えられるからである。素質があればドミネーションできるだけでしょ、と思うかもしれない。確かに、怪獣優生思想の面々を見るに、怪獣使いになるために必要な「自由」への指向性の強さは程度問題であるだろう。しかし、ガウマと同程度に「自由」を失ってしまえば、怪獣を掴むことはできなくなってしまうのである。私はこの疑問に対して、蓬の「不自由」もまた一つの自由の形である、ということを主張したいと思う(後述するが、そもそも蓬は、「自由」を失う、とは言っていない)。そのことを説明するために、私は、20世紀を代表する思想史家アイザイア・バーリンによって区別された二つの「自由」概念を参照したい。その二種類の「自由」とは「積極的自由」と「消極的自由」である。
 「消極的自由」と「積極的自由」とは何なのか。この二つの自由概念の区別は様々な仕方で表現される[1]。一つに、非干渉と自治である。この場合、「消極的自由」は、自身の行為に対して外部からの妨害が不在である状態のことを指し、「積極的自由」は自らの生に責任を負い、なそうと決めたことをなすことができる状態(自立・自律ともいう)のことである。他の区別には、社会的関係として相互人格的な見方によって説明される「消極的自由」と人格内部の要因によって説明しようとする「積極的自由」がある。一言でいえば、他者の権力に従わないという自由が「消極的自由」、自己支配、自律としての自由が「積極的自由」である。例を挙げると、意にそわない命令に従わない自由を有する、というときの「自由」は消極的な意味での「自由」であり、あの人ってどんな人の前でも自由に振る舞うよね、というときの「自由」は積極的な意味での「自由」である。ここで、あまりなじみがないと思われる「積極的自由」について簡単に説明しておこう。
 「積極的自由」は、古代ギリシア・ローマ的な自由観念にさかのぼる概念である。古代人の「自由」とはまず何よりも、共同生活のための政治参加であった。「自由」な古代人たちは公共の広場で平和や戦争について討論を繰り広げたり、共同で法律を採択したりすることを通じて、共同で直接的に主権を行使していたのである。つまり、自らの属する共同体の運命を自分の手で決め、その決定に参加すること、それこそが「自由」の意味するところであった。このことからわかるように、ここでの「自由」は「消極的自由」とは何ら関係がないし、場合によっては共同体での決定に無理やり服従させられるという意味において、「消極的自由」と鋭く対立するという見方すらありうる。
 「自由」とは何らかの意味でより良い高次の存在へと自分自身ないしは共同体を近づける自由であるという積極的な自由観は、近代に入ってヘーゲルによって引き継がれていく。ここらで、「積極的自由」のより具体的な例を挙げておこう。
 33歳になったにも関わず、働かずに実家でニート生活をしている人がいたとしよう。彼はある日ひょんなことから合体ロボに乗り込んで怪獣と戦う一員になり、日々の操縦練習に嫌々ながらも付き合わされることになってしまう。しかし、仲間ともに怪獣と戦う日々の中で起こったある出来事をきっかけに今までの自分の生き方を変えようと決心し、やがては就職活動を始めるーーこのとき彼は積極的な意味において「自由」であるとみなされる。というのも、彼は今や自己実現(※)の「自由」を行使しているからである。
 ここで、このような状態を「消極的自由」の観点から「不自由」である、とみなす見方があり得ることに注意しておきたい。それを理解するためには、次の点に注目すればいい。自己実現で目指されるとされる、より良い存在なるものの「より良い」の具体的意味内容を決める決定者は誰だ、という点だ。素朴に考えるならば、それは、そうなそうと決め自らを律する「私」ということになるであろう。しかし、それは本当に「私」なのだろうか。積極的な自由観においては、「自由」とは何かへ向かう自由、「~への自由」であるから、必然的に「私」は今ある経験的な「私」と達成されるべき超越的な「私」に分割され、経験的な「私」を超越的な「私」が支配するという形態をとる。達成されるべき「私」が今の「私」ではないからこそ理想的な「私」へ向かう運動が可能になるわけだが、今の「私」ではない超越的な「私」の意思こそが本当の「私」の意思であると、どうしていえるのであろうか。「私」は経験的な「私」でしかありえないのだから、達成すべき理想的な「私」=真理など誰かが勝手に作り上げた擬制ではないか。こういった視点に立つならば、「積極的自由」は手の込んだ「消極的自由」の抑圧であるという見方が成立する。そう考えれば、自律とは(消極的な)「自由」を失うことだといえるのではないだろうか。
 もう一つ「積極的自由」が(ラディカルなタイプの)消極的な自由観から「不自由」とみなされ得る「自由」の例をあげよう。我々はある行為を行う際に、それに関するすべての動作を意識するわけではない。例えば、自転車に乗って買い物に行く際に、逐一足の動かし方や腕の使い方とどうしてそのように動かしているかについての理由を意識する人はほとんどいないはずだ。自転車の乗り方の練習をしていた頃ーーきっと幼い頃ーーは考えていたはずの思考・判断は無意識化、身体化している。もはや幼くないあなたはまさに「自由」に自転車を乗り回せるわけだ。しかし、自転車に乗る際の判断が無意識化・身体化され、身体がそのように訓練されたということは、幼い頃は出来ていたはずの事前の意思決定ができなくなったということを意味する。出来ていたはずの意思決定が外的な干渉ーーきっと親や共同体によるものーーによって出来なくなってしまったというこの事態は、(ラディカルなタイプの)消極的な自由観からすれば確かに「不自由」な状態である。この例は極端だが、ここでの自転車の乗り方を、学校での進路指導、あるいはもっと成人的な例として、会社での定期的な勤務態度評価を通じた従業員への”優秀な”会社員マインドの内面化に置き換えたとしたら……?消極的な自由観からすれば、無自覚のうちに自由を失っていく、とこの事態を説明することであろう。この意味において、我々は”成長”とともに無自覚に「自由」を失っているのである。


 さて、『SSSS.DYNAZENON』の話に戻ろう。蓬とシズムは12話最後で次の会話を交わす。

シズム「君たちはそうやって無自覚に自由を失い、やがて自分自身を縛っていくんだ」
「俺は自由を失うんじゃないよ。かけがえのない不自由を、これから手に入れていくんだ」

 今季アニメナンバーワンの名台詞である「かけがえのない不自由を、これから手に入れていくんだ」に注目しがちだが、「自由を失うんじゃないよ」という発言はもっと注目されていい。このセリフからわかること、それは、少なくとも蓬にとって「不自由」を手に入れることは「自由」を失うことを意味しない、ということである。では、「不自由」を手に入れながらも「自由」であるとはいったいどういうことだろうか。これを整合的に理解するには二つの「自由」概念を念頭に置きながらエピローグに注目すればよい。
 エピローグにおいて、無職だった暦は稲本の夫が経営する店に就職し、ちせは学校に登校し始め(※)、蓬は上条に対して屈託なく接している。ここでは、ある種の自律・自立、もしくはそこへ至る途中の過程が描かれているように思われる。蓬が手に入れ、これから手に入れていくかけがえのない「不自由」とは自律=「積極的自由」のことなのである。自律が(ラディカルなタイプの)消極的な自由観からみて、「不自由」とみなされ得るものであることを踏まえると、このような自律としての「自由」を「不自由」とよんだ理由がわかるだろう。したがって、シズムと蓬の会話の意味を次のように解釈できるのではないだろうか。

シズム「君たちはそうやって無自覚に(消極的)自由を失い、やがて自分自身を縛っていくんだ」
「俺は(積極的)自由を失うんじゃないよ。かけがえのない不自由(=「消極的自由」から見た場合の「積極的自由」)を、これから手に入れていくんだ」


 蓬の「自由」とは「積極的自由」=自律・自立のことであり(思い返してみれば、蓬は物語のはじめから自立を求めていたのであり、これは穏当な結論であると思う)、シズムの「自由」とは「消極的自由」のことであるのだ。だからこそ、「自由」を失うのではなく、「不自由」を手に入れていくことができるのである(ここではこれ以上突っ込まないが、この点、つまり、上記のやり取りにおいて蓬が自らの意味で「自由」と言った後、シズムの自由観に寄り添う形で自らの「自由」を表現しなおした点は案外重要かもしれない)。
 蓬がシズムの自由観に寄り添う形で表現した「不自由」は、自律・自立・自己支配という名の「自由」でもあった。蓬によるガギュラへのインスタンス・ドミネーションの成功、それが意味するのは、そういうことではないだろうか。
 

『SSSS.DYNAZENON』は、登場キャラクターたちの対立構造という意味でも、キャラクターの境遇をめぐる描写という意味でも、自立という古典的なテーマを現代風にうまく焼き直して、丁寧にその在り方を描いていたと思う。近年まれにみるくらい率直で、だからこそ心に響く自律・自立・成熟の物語であった。



※だいぶ手垢が付き、意味がねじまげられてしまった言葉ではあるが、ここでいう自己実現とは、何も経済社会で成功するといった類の意識の高い(想像力が閉塞したといってもいい)ものでなくてかまわない。どれだけ個人的でささやかな目標であろうが、それがここでいう自己実現である。

※ちせは結局、通学していない、と考えることも可能である。ただ、もし定期的に学校に行っていなければ、ちせも制服似合ってなかったよ、とは言われないとおもうので、ちせは学校に通い始めたと私は解釈した。似合ってたまるか、とは、暦みたいになりたくないから渋々通学しているだけで、別に学校という場に迎合したわけではない、と考えた。どちらにとれるようにしているのだと思う。該当シーンで壊れた校舎が描写されているあたり将来的には行かなくなるのかもしれない。いずれにしても、何らかの形の自律・自立が描かれていることには変わりがない。

※本作が、幼年期との決別=自立を描いてると考えると、怪獣優生思想は幼年期の象徴といえるかもしれない。

※ところで、なぜ蓬は、「積極的自由」を「不自由」とよばなければならなかったのだろうか(もちろん作品論的な意味で)。本作のこの表現の仕方にはどういった時代精神が反映されているのだろうか。これは、考察というよりは時代批評の範疇だと思うので、ここでは詳細に述べることはしないが、市場が煽り立てる「活躍すること」(「積極的自由」を通じた支配)への漠然とした反感が共有されているのではないかと私は考えている。これについては、別稿に譲ろうと思う。

※本稿では文章の進め方の都合から「積極的自由」と「消極的自由」を厳密に対立するものであるかのように書いてきたが、バーリンも言うようにこれらは同じことの消極的な言い方と積極的な言い方の違いでしかない、ということをここで付け加えておく。


参考文献
[1]Z・A・ぺルチンスキー、J・グレイ 編『自由論の系譜 政治哲学における自由の観念』(行人社)
[2]大屋雄裕『自由とは何か ー監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書)

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