TVアニメ『ひぐらしのなく頃に業』感想と考察

人が黴菌と呼んできたもの、
        それは神なのだ、

Antonin Artaud「神の裁きと訣別するため」


 TVアニメ『ひぐらしのなく頃に 業』を見たので感想を書いていこうと思う。私は原作ゲームをプレイしたことはないものの、『業』視聴後に過去作アニメ版ひぐらしをNetflixで一通り視聴した。つまり、アニメ版のひぐらしシリーズを視聴した人の記事である。その点をご了承いただきたい。ここで『業』の感想を簡単に述べておくと、ところどころ悪い意味でシュールな展開があったりしたものの、最近私が見たアニメの中で一番面白かったと思う。『卒』も気になるので見ようと思っている。
 さて、以下では、アニメ版ひぐらし世界についての感想と考察を述べていく。アニメ版ひぐらしの無印、『解』、『業』のネタバレについては配慮しないのでネタバレを気にする方は、これらを先に視聴することをお勧めする。
 本投稿の構成は、まず第一部として郷壊し編について素朴な感想を箇条書き程度に書く。最初はすべての編について感想を書いていたのだが、第二部が長くなってしまったので泣く泣く郷壊し編以降の感想のみにした。第二部では視聴最中に思いついたトピックを取り上げ、それについて感想ないしは考察を述べる。正統派の考察はすでに何度もなされていると思うので少々メタ的な手法をとることにする。本投稿は結構長い投稿であるが、気になったセクションだけ読んでも支障はないように書いてある。ただし、「まとめ」だけはそれまでの話に触れながら書かれている。

 さて、本題に入ろう。

1.第一部

1.1 郷壊し編

 郷壊し編の一番最初の鷹野の富竹のやり取りは今後の展開を暗示してそうう。

 メイド服を制服として推薦する入江先生の沙都子に対する視線が気持ち悪い。

 キャラクターソング?が挿入されてルチーア受験までの梨花と沙都子の姿が描かれる一連のシーンは、いつかは壊れてしまう幸せだったあの頃って感じがして、良い。

 1987年に梨花と沙都子が高1だから、梨花が昭和1983年に閉じ込められていた時、梨花と沙都子は小6だったようである。背丈からして小3くらいかなと思っていた。

 梨花を独占しようとする沙都子怖い。ただ、中学生~高校生くらいだと、沙都子のような極端な形ではないにせよ(繰り返す者じゃないし)、友達を独占したいとおもうことはあるんじゃなかろうか。知らない人と親しげに話している友人を見てその人との間に割って入りたくなったり、そのあと気を引くためにわざと無視したり、成績で絶対に負けたくなかったり。

 再開した部活のメンバーと昔のように接することができているあたり、実は梨花はそんなに変わってないのだろう。ペルソナを使い分けているだけ。

 沙都子が変わりつつある雛見沢をめぐってノスタルジーに浸るシーン切ない。沙都子の表情が……。梨花と過ごした思い出の家がルチーア学園に幽閉されている間に大雪で崩れていたことを知るところとか(´;ω;`)

 繰り返す者の力を授けられた沙都子は幼少期におやしろさまの腕を壊してしまった沙都子のようである。

 私も人の子に世界を渡る能力を与えて運命に翻弄される人の姿を鑑賞したい。でも外部世界を導入するとなんでもありになって収集がつかなくなりそう。

 男が一人暮らしをすると最後に孤独死が待っているからはやく嫁を見つけたほうが良いという警官の発言に昭和らしさを感じた。

 EDのアニメーション好き。

 繰り返すものの力を手に入れた今、勉強するふりをして飽きるまで楽しい小中時代を繰り返すこともできるのに(勉強する梨花をみたくないのであれば受験勉強を開始するまでを繰り返せばいい)そうしないのはそもそも梨花のことが信じられなくなっているからとか、そういった沙都子の心情を考えれば繰り返す者として惨劇を起こしていく沙都子の動機は理解できるが、その動機を説得力のある描写で表現できていないように思えた。梨花の過去を全部見てもなお梨花のことを許さないとはいったい。沙都子の頭がおかしくなったように見える。いや、実際おかしくなっているのかも……。まあでも、恋は盲目というし(ここでは恋というより執着だろうが)、こんなものなのかもしれない?

 レナとか沙都子を見ていると身につまされる思いがする。キャラクターの口調とかファンタジスティックなのに行動が妙に生々しいときがある。まあ、その味が良いんだけども。

 エウアは沙都子をもてあそんで楽しんでいるようだ。

 雛見沢症候群を発症させる薬が入っているケースの暗証番号がものすごい総当たりに弱そうであった。まず、暗証番号は8桁であり、一見すると、暗証番号のパターンは10^8通り、つまり1億通り存在しそうに思える。暗証番号のすべての桁を入力後に暗証番号のチェックがされるのであれば、これらを0から打ち込んでいくほかなく、確かに、特定までに最大1億回の試行が必要であり、総当たりは狂気の沙汰であろう。しかし、沙都子が総当たりしているケースのロックでは、番号を一つ入力するたびに正しい数字かどうか検証が走る。したがって、暗証番号をすべてチェックする必要はなく、チェックすべき暗証番号は最大でも10*8通り、つまり80通りである。これくらいだったら誰でも総当たりを行うだろう。見た目に反してこの暗証番号を破るのは容易である。繰り返す者でなくても試行を連続してできるのであれば、誰にでも開錠可能である。なるほど、脆弱セキュリティの入江機関らしい暗証番号システムだ。この8桁の暗証番号システムは、実際には、2桁のフルチェックの暗証番号に少し劣るくらいのセキュリティ強度である。
 このパスワード付きケースが一度でも間違えるとロックされる作りだとすると、繰り返す者には容易に解ける暗証番号システム、繰り返す者でない普通の人間には強固な暗証番号システムということになり、繰り返す者とそれ以外の人を選択的に区別することのできる舞台装置として活用できるが(この場合、繰り返す者からすれば高々80回試行で解けるのでほとんどのあり得る世界において暗証番号は破られているのに対し、普通の人からすれば、開錠できる確率は1億分の1)、もしかするとこれは繰り返す者を嵌めようとする誰かの「トラップ」なのだろうか(疑心暗鬼)。

 

第二部

2.1 自由と幸福 包摂からあぶれる個人

 『解』において、梨花は長い時を経て部活のメンバーの力を借りて、ついに雛見沢という牢獄を破壊することに成功した。牢獄を脱出したあとは何の憂いもなく、雛見沢の外という大空を自由に羽ばたける……本当にそうだろうか。私は、ここに解き放ちとともに「自由」(「」を付けているのは、常に自由とはある社会体の中で行使されるものであり、無限定な自由は死以外にあり得ないという含意である)についていけずに零れ落ちる個人という構造を見逃すことができなかった。そして、『業』の沙都子と梨花はこの構造を体現する存在であるように思えた。
 「自由」は現に強くある存在にとっては、その意思を制限なく実現できるという意味において至上の価値である。しかし、実際には、すべての存在が「自由」を行使して自身の幸福を実現できるほどの能力や強さを有しているわけではない。したがって、「自由」のもとで幸福を実現できなかった者は、そのような境遇を生み出した「自由」を呪い、不自由の対価としてかつて与えられていた保護を求めて、不自由へと逃走することになるだろうーー『業』における沙都子のように。雛見沢という鳥かごから逃れ出ようとする梨花とその鳥かごに梨花と自身を閉じ込めようとする沙都子。そんな構図がここには見て取れた。具体的に説明しよう。 

 梨花は雛見沢という地の束縛から逃れたのち、雛見沢から離れて聖ルチーア学園で毎日が未知の(つまり「自由」な)ハイソサエティーな学園生活を送るために受験勉強をしようと思っていると沙都子に打ち明ける。そして、その夢には沙都子も付き合ってほしいのだという。これに対し、沙都子は渋々ながらも梨花のためならと了承し、ともに聖ルチーア学園を目指すことになる。数年後、無事沙都子と梨花は学園に合格する。しかし、問題はここからである。
 沙都子は勉強が苦手である。したがって、聖ルチーア学園の授業についていけない。そして、いつしか常に勉強し続けているような補修クラスへ入れられてしまう。補修クラスでいくら勉強しても元クラスへ戻ることは難しそうだ。沙都子は苦痛に満ちた学園生活を送っている。一方、梨花は勉強は嫌いらしいが、そこまで苦手なわけでもないようで、授業にはきちんとついていくことができ、さらには、クラスの授業開始終了時の号令を任されるなど、一目を置かれる存在になる。授業後にはサロンで級友と談笑して夢の「自由」な学園生活を送っている。
 ここに、明らかに得手不得手のーーこの文脈では「自由」のといってよいーーの問題が現れている。つまり、「自由」な環境下で自身の幸福を実現するために必要な力(ここでは、勉強の能力)の差異である。このような雰囲気が端的に言い表わされたセリフがある。沙都子の次のセリフだ。「頑張ればできるというのも一つの才能なのですのよ?」そうして、「自由」がもたらす状況に耐えかねた沙都子は、雛見沢という牢獄の不自由へと逃走する。得手不得手の差異を無視してこのような不幸な状況に追い込まれれば、楽しかったあの頃、梨花と過ごした幸福な時間に沙都子が執着するのは無理もないことであろう。もっとも、梨花のように「自由」に幸福を追求できるのであれば、当然それに越したことはない。沙都子と梨花の対比は、雛見沢という土地に重ね合わせることもできるだろう。ここで「自由」とは、雛見沢からの解き放ちという幸福であり、雛見沢の外部環境の中で幸福を実現できない苦痛である。冒頭で述べたのは、こういうことだ。
 

 『卒』を予想するためにここで少し考えてみたいと思う。人の能力や意志は均一ではないという「自由」の困難な状況に対してはどういった対応が考えられるであろうか。一般的には、現に弱くある主体(文脈に応じて様々だが)に対して「配慮」(もちろんパターナリズムに陥らないように注意しなければならない)を行い、できる限り「自由」に自らの幸福を追及できるようにサポートすることである(『業』では勉強が梨花と沙都子を「自由」の観点から分けるポイントになっているので違う学校に行くというのも一つの選択だろう)。おそらく、『業』の沙都子に関して欠けていたのは、このサポートである。そして、沙都子の暴走を経て、そのサポートに至るまでの物語が『卒』になるのではないだろうか。


 そもそも、「自由」への解き放ちは自己の幸福の追求を可能にする一方で、それまで不自由の中で与えられてきた保護の剥奪を意味する。梨花のように「自由」へと羽ばたけるのであれば、それでよい。しかし、「自由」に羽ばたくだけの力がないとしたら……。沙都子はこの解き放ちの犠牲者であるのだ。

 一般に大人とは自己決定を通して自身の幸福に配慮できる存在のことを言う。そして、この能力には個人差がある。沙都子は社会の包摂からあぶれる存在だ(『解』にて北条家への村八分がなくなったたとはいえ、サポートが十分とは言い難い。おそらく作中の時代背景的なものもあるのだろう)。『卒』では、おそらくこのあたりに手が付けられるのではないだろうか。私としては、その重い境遇を引き受け、自分の人生を見つけ出してほしいと願っている(もちろん、突拍子もない救済あるいは反救済でもそれはそれで興味深いが)。『解』の鷹野のように、過去を改変すること、そもそもの初期条件を変更することでしか救われ得ないのだとしたら悲しすぎるからだ。


2.2 トラウマ的表象の前景化 妄想から解離、多重人格、トラウマへ

 軽く調べたところによると、雛見沢症候群は被害妄想をおもな症状とするようであり、このためか統合失調症との関連性でとらえられることがあるようである。しかし、『業』において、統合失調症的な部分、妄想症状の描写というのはなりを潜めているように思われる。代わりに、トラウマ的表象が物語に影響を及ぼすという点が全面に押し出されているように思われた。ここでいうトラウマというのは心的外傷のことであり、これは『業』では、沙都子のフラッシュバックなどが相当する。とはいっても、この描写自体は無印、『解』にも存在したので、妄想描写の退潮にともなって相対的に前景化したともいえる。ただ、今作は沙都子を中心に据えている作品のようなので、『卒』でその家庭環境が掘り下げられることがあるのではないだろうか。そうなれば、トラウマ的表象の前景化が実際に裏付けられたといっていいかもしれない。
 そして、ここに2006年と2020年代という作品が作られた時代の違いが反映されているように思えた(作中設定時代は無印、『解』と『業』で同じだが)。どういうことか説明しよう。スキゾフレニア(統合失調症)は20世紀初頭に出現し、近年にいたって急速に軽症化、スキゾフレニアと入れ替わるようにトラウマ=心的外傷という病態が前景化しているという[2]。つまり、雛見沢症候群の妄想描写が退潮し、代わりに家庭環境に起因するトラウマティックな事象の前景化は、統合失調症的表象から心的外傷、解離、多重人格、発達障害的表象へ、という時代の変化を反映しているのではないか、というわけだ。もちろん、ここでいう時代の変化とは、2006年から2020年の間に明確な断絶があるわけではなく、ずっと昔から徐々に進行していた変化がこの間に前景化した、という意味での変化である。
 

※[2]において、トラウマや解離、多重人格、発達障害は、象徴的なものとリアルなものの創発によって生じる「自己」の危機として説明されている。

2.3 信じる気持ちのポジとネガ なぜ『業』が必要とされたか

 前作(無印、『解』)では、信じることが運命を切り開く鍵になるということが主張されていたと思う。『卒』PVの、「あなたは、それでも信じられますか?」というフレーズからわかるように、今作(『業』、『卒』)でも、信じるということが重要なテーマであることがうかがえる。
 信じることというのは一見無条件に良いものであるように思える。だが、それは批判性を失えば途端に現実を顧みない自己中心的な振る舞いへと転化するものである。後者の果てにあるのが、雛見沢でおこる惨劇であり、現実世界では陰謀論(ちょっと古くは狂信的カルト)といったところであろう。信じることのそのような二面性に対してTVアニメ版ひぐらしはどのように向かい合ってきたのだろうか。ここで私なりにまとめたいと思う。

 まず、無印、『解』において、物語の最終盤にいたるまでは、基本的には信じることが惨劇につながるという構造が反復されている。例えば、無印において、惨劇は雛見沢症候群が見せる幻覚、妄想に駆動され、これが凶行の直接のトリガーになっている。二つ例をあげると、鬼隠し編では、圭一は部活メンバーの中に連続怪死事件の犯人がいるのではないかと疑念を募らせ、やがてはその疑念から逃れられなくなり、お見舞いにやってきたレナと魅音が持っていたペンを注射器と見間違えて彼女らを殺してしまう。これは、雛見沢症候群の妄想によって自身の思い込みに反省的な視線を向けられなかったために起きたことであろう。目明し編では、連続怪死事件を園崎本家の仕業だと思い込んだ詩音が、自身の信念を批判的に捉えることなく、おにばばを手にかけたことをきっかけとして、妄想が妄想を呼び、凶行を重ねていく。『解』では、雛見沢症候群の妄想に起因する凶行という描写は後退するものの、おじいちゃんの研究をなにがなんでも世に認めさせてやるという信念が鷹野を凶行(部活メンバーの皆殺しや雛見沢大災害)に走らせており、信じることが凶行につながるという構造が依然提示されているといってよいだろう。
 一方で、『解』の祭囃し編では、強い信念こそが新たな運命を切り開く、という構造が提示される。みんなの気持ちを一つにするために昭和58年6月というゲーム盤の最後の駒として羽入が実体化、分校に転校してくるという展開は、まさにその構造の提示であろう。実際、羽入実体化以後、人々の行動を左右する重要な場面で、相手の行動を変えるための説得力のある会話が描写される代わりに、相手の言っていることに本気さを感じたからという理由で自らの考えを変える重要人物の姿が描写されていく。もちろんこれは、他の世界の記憶が朧げながら残っているからという形で正当化されるのだろうが、いかにも説得力に欠ける。これは脚本の稚拙さというよりは、こう考えたほうがいいだろう。説得力を欠く、相手の気持ちに依存したシーンによって、人間関係や運命の岐路における個人の気持ち、信念の重要さがかえって強調されるのである。
 ところで、祭囃し編で仲間を頼る描写があることから、(雛見沢症候群の妄想に代表されるような)独善的な信念か仲間との共同的な信念かどうかが惨劇につながる信念か幸福につながる信念かの違いだ、と読み取れると思うかもしれない。だが、そう読み取ることはおそらくできない。というのも、共同的な信念を形成するためには、相互に対等なコミュニケーションを十分に交わす必要があるからだ。そのプロセスの中で思いを互いに交換しあううちに、その結晶として共同的な信念が生まれる。しかし、祭囃し編では部活のメンバーが説得される根拠が梨花の本気さというなんだかよくわからないものでしかなく、他の世界の記憶の残滓があるために説得が容易だったとはいえ、共同的な信念を形成するほど十分だったとは思い難い。これでは、梨花の独りよがりではないとも言いきれない。

 こうまとめてみると、無印、『解』においては、運命、人生選択における信じること、信念の重要さを強調してはいても、その二面性は直接取り扱われていないといえるのではないだろうか。つまり、みんなの幸福につながる信念、信じる気持ちと、惨劇につながる信念、信じる気持ちの差異は何なのか、という問題は問われないまま、依然積み残されているのである。


 それでは『業』は信じることの二面性をどのように取り扱っているのだろうか。私には、まだこれといった答えは読み取れないように思える。しかし、信じることの暗部について取り上げられたシーンを読み取ることはできると思う。『業』の祟騙し編での児童相談所騒動である。祟騙し編において、圭一らは沙都子が虐待されているという確たる証拠なしに児童相談所に乗り込み、挙句の果てには、雛見沢全体を巻き込んで自身の要求を通したのである。そして、実際には虐待は事実誤認であったことがのちの展開で示される(ミスリードでなければ)。友達を助けたい一心だったとはいえ、自らの思い込みを疑うことなく突っ走る姿はまさしく信じることの暗部である。とはいえ、二面性が正面から問われたわけではない。
 そして、このような姿勢を作劇レベルで体現するのが『業』の沙都子と梨花なのではないだろうか。『業』において両者の間には奇妙なほど相互理解のための会話が存在しない、エゴとエゴのぶつかり合いしか存在しないーー無印、『解』が積み残した問題と『業』における沙都子と梨花の対立はパラレルに重なるーーだから、こう言えるのではないだろうか、『業』の梨花と沙都子、ひいてはこれまでのアニメ版『ひぐらし』が提示しているのは、この共同的な信念の欠如という課題であり、これらにけりをつけるのが『卒』なのではないか。
 『業』の沙都子が言うように、アニメ版を見る限りでは、梨花は愛嬌と幸運で良い目がでる偶然に期待し、手持ちのカードを固定して十分なコミュニケーションをとることをしてこなかった(原作やスピンオフでは補足されているのかも?)。雛見沢に囚われている間は賽子は振りなおすことができた。だが、ループを抜けた先では一度振ってしまった賽子を振りなおすことは出来ない。それが裏目に出てしまったのが沙都子との対立なのだ。梨花が無印、『解』に残していった課題、それを部活のみんなで今度は真に共同的に解決するーー梨花と沙都子の対立の宥和は無印、『解』にて積み残されてきた問題へのアンサーでもある。そして、そのこの問題を解決してはじめて、雛見沢という土地、そしてアニメ『ひぐらしのなく頃に』から卒業することができるのではあるまいか。

 信じることのポジとネガ。この問題について『業』まででは回答が与えられていない。考えすぎと思う人もいるかもしれないが、あらゆる作品は、作者の手を超え、その外部で捉えることによってこそ、真のポテンシャルが見えてくるものである。『卒』においてどういった回答を読み取ることができるのか、はたまた、出来ないのか注目していきたいと思う。



※(連想的蛇足)====
 信じることによって運命が良い方向に転がっていく、信じれば現実化する、といった考え方は私達の現実世界にもある。そう、ポジティブ・シンキングである。ポジティブ・シンキングとは、一言でいえば、「自分を信じれば、すべてうまくいく」、「強く信じれば、その思考は現実化する」といった考え方のことで、アメリカ合衆国元大統領ドナルド・トランプは、自己啓発書『積極的考え方の力』で有名なポジティブ・シンキングの主唱者ノーマン・V・ピールに心酔していたことが知られている[3][4]。
 トランプ元大統領といえば、ウイルスパンデミックが世界を混乱の渦に巻き込む中、2020年アメリカ合衆国大統領選に関する陰謀論が何故か日本をにぎわせたのは記憶に新しい。Qアノンと言えばわかるだろうか。以下の連想にはさらなる検証が必要だが、「強く信じれば、現実化する」という考え方と、人々を疑心暗鬼の渦に巻き込み、相互理解を困難にし、果ては議会突入までも誘発してしまう陰謀論は表裏一体ではないだろうか。
 ひぐらしにおいてもこのような信じることー陰謀論的想像力の筋は提示されていた。無印における罪滅し編である。思い出してみれば、雛見沢症候群の見せる妄想と疑心暗鬼のままにレナは陰謀論的思考にからめとられたまま学校を占拠していたのであった。陰謀論を信じ込んで議会に突入した暴徒のように……。
 興味深いことに『業』においても再び、この信じることー陰謀論に近しい考え方が無印、『解』とはまた異なった形で提示されているようにも思える。郷壊し編で繰り返し提示される、沙都子の勝利への執着や、部活のメンバーで再開した際に示される、勝つためにはイカサマもトラップもなんでもあり、という部活の規則、である。トランプ元大統領はその自伝で、勝つためなら法の許す限りでなんでもすると述べている。ここに郷壊し編で提示され続ける、勝つことに執着する沙都子の姿が重なってこないだろうか。『業』24話ラストの沙都子の言葉を思い出してみよう。「わたくし、勝つと決めたら必ず勝つのですよ?」
 もし、『卒』においてなんらかの卒業が描かれるのであれば、それは部活からの、勝利への執着からの、そして、危ういただ強いだけの信念からの卒業でもあるはずだ。

2.4 世界の熱的死 世界渡りが不可逆過程ならば、世界渡りの果てにすべてのカケラはただ一つの世界に収束する

 エウアによって沙都子に与えられた力は強すぎるために、繰り返す者の力の行使にともなって小さな変化や差異が世界に蓄積していくらしい。また、一度発生し、積み重ねられていく記憶は繰り返すほどに強固になっていくという(23話)。この発言が意味するところは明確にはわからないが、世界渡り(繰り返すたびに世界の有様が少しづつ変わっていくので、ここではこう呼ぶことにする)をする際に以前いた世界の情報で次の世界が部分的に上書きされ、しかも上書きされる部分は直前の世界の状態だけでなく、それまでの世界状態の軌跡すべての影響を受ける、といったところであろう。これは世界を渡るたびに世界間の差異が小さくなることを意味する。ここから以下のことが帰結されるのではないだろうか。つまり、世界渡りを繰り返していけば、やがて、すべての選択できる世界は等価になり、世界間の差異は限りなくゼロに近づく。
 ただし、世界渡りで上書きされる情報に制限があればこの限りではない。このシナリオを検証するためにまずは世界渡りとは何なのか考えてみたいと思う。

 世界渡りを考えるうえで、次の二つの要素が重要であると思われる。一、選択されるあり得る世界の集合の性質。二、世界渡りの前後の世界の関係f。これら二つがわかれば、世界渡りについて明らかにしたも同然である。
 世界の集合については、次の二通りの可能性がある。一、論理的にありうる世界なのであれば、その世界は集合に含まれている。二、選択できる世界には制限がある、つまり、論理的にあり得るが世界渡りではたどり着けない世界が存在する。制約あり世界集合の場合、制約の取り方によってさらに区分できるだろう。一、エウアが恣意的に選択した世界しか含まれていない。二、エウアが世界集合に関わることはできない。また、世界集合そのものが世界渡りをするたびに変動する可能性も考えられるが、これは世界渡りの経路の性質に帰着できるので、ここでは考えない。
 世界渡りにおいて隣り合う世界の関係fについては、大きく分けて次の4つが考えられる。一、無関係。二、次に選ばれる世界は直前の世界にのみ依存する。三、それまでに選んできた世界の経路すべてに依存して次の世界が決まる。四、何もしていないように見えて実はエウアの一存で次の世界が決まる。

 作中の情報から可能性を絞り込んでみよう。
 まず、世界渡りで隣り合う世界が無関係ということはなさそうだ。なぜならば、死ぬことで同じ世界に行くことができるからだ(神経衰弱を試行回数で突破する沙都子)。また、選ばれる世界が直前の世界のみに依存するということもない。というのも、世界を渡るものから見て世界渡りにともなって人々の記憶が蓄積していっているように見えるからだ(鉄平)。世界関係についてのエウアの介在については不明である。介入を仮定すると、ルールそのものを変えることでなんでもありになるからだ。意味のある考察をするためには、世界選択についてはエウアはノータッチ、と考えるほかあるまい。したがって、世界の関係については、次に選ばれる世界は、それまでの世界の経路すべてに依存していると考えられる。
 世界集合については作中の情報だけから絞りこむのは難しい。我々が主に見せられているのはいろいろな世界内部での出来事であり、世界外での出来事ではないからだ。ただ、作中の描写から、世界集合は二つの部分世界集合に分けられそうである(反転したおやしろさま像や反転した店、等々の性質をつかって)。

 世界渡りを繰り返していった時、世界関係fによって生成される世界の列は世界集合の中でどのような軌跡をなすだろうか。これについては次の可能性がある(たぶん)。一、ただ一つの世界に向かっていく。二、ループをなす。三、世界集合のなかを当てもなく彷徨う。これについては確実なことはやはり何も言えないが、ループ構造はないだろう。というのも、エウアの言うことを信じるならば、記憶蓄積の過程は不可逆だからだ。もしも世界経路がループ構造を取るとすれば、ある世界についてそれと全く同じ世界に出会う世界渡りが存在することになるが、記憶の蓄積過程は不可逆なので、同じ世界に出会うまでの間の記憶蓄積はゼロでなければならない。しかしこれは記憶蓄積が実際に作中で起こっていることに反する。よって、ループ構造はありえない。ただしこれは、世界渡りにおいて過去に通ったことのある世界の極めて近くを通ることがある可能性があることを否定しない。とはいっても、記憶蓄積の不可逆性の分だけは世界の距離は離れているはずだ。そもそも世界集合の位相って何、という話ではあるが……。また、ループ構造内での記憶蓄積が禁止されるだけであり、世界経路の途中に記憶蓄積のないループがあってもよい。言い換えると、(繰り返す者以外にも)記憶蓄積がある経路ならば、少なくともその部分はループ構造に含まれていないということだ(図1)。ここで、繰り返す者についてはループ構造内で記憶蓄積が可能であり(世界渡りでの記憶維持こそ繰り返す者の能力だからだ)、記憶蓄積の特異点をなすであろうことには注意したほうが良いと思う。

図1

図1 世界経路と記憶蓄積の関係 

 

 これ以上物語の中の情報から絞ることは難しい。というのも、エウアのような外部存在と外部世界がある以上、わりとなんでもありだからだ。そこで、邪道かもしれないが、『業』OPテーマ『I Believe What You Said』の歌詞から世界渡りの実態について絞り込んでみよう(それをいったらおしまいよ?とか言わない)。
 歌詞の大部分は普通のいい感じの歌詞といったところで世界渡り考察に役立たなそうである。しかし、三つ興味深いフレーズがある。「幾重にも繰り返す狂気 閉ざされたリフレイン」、「目を覚ますころ 描かれた絵空」、「この広い空さえも 作られた張りぼてなら」である。最初のフレーズは何かを繰り返していることを示唆していて、後者二つは、世界そのものが構築物であると主張する。これはほとんど答えのようなものなのではないだろうか。そう、つまり、世界渡りの経路は記憶蓄積の不可逆性の分だけ離れた世界を通るような螺旋をなしており、それは一見、ループのようであり、世界渡りの世界集合はエウアによって始めから制約されている(世界はエウアによって作られた世界からしか選択できない)のである。

 さて、最初の問いに戻ろう。世界渡りの果てに世界の差異は本当にゼロに近づくのか。ここまできても、一つの世界に近づく(観測される世界の差異はゼロに近づく)のか、それとも、エウアの制限した世界のなかで全く同じ世界を通らないようにして彷徨うしかないのかについて確実なことは言えない。しかし、次に行く世界がそれまでに通ってきた世界の経路に依存する、世界渡りの記憶蓄積の不可逆性というのは、ものすごい強い制約である(記憶喪失を不可能にするというこんなにも強い制約を入れてもいいのかというほどに)。ここからあまり論理的な帰結とはいえないが、おそらく、世界は最終的に一つの世界に収束するのではないだろうか。さながら記憶蓄積の不可逆性ならぬ、エントロピー増大則が示唆する「宇宙の熱的死」(※)のように、数限りのない繰り返しを経た世界は制約された世界集合内であり得る最大値のエントロピーをとる世界となり、変化のない袋小路に陥るのだ(※)。
 ただ、ここで忘れてはならない世界集合の構造がある。そう、世界集合は二つの世界部分集合に分けられるのであった。ここまでは、一人の繰り返す者の視点を暗黙のうちに仮定してきた。世界が収束するということが意味するのは、一人の繰り返す者の軌跡がある一つの世界に向かっていくということであって、二人いる場合、その両者の収束先がかならずしも一致するとは限らない。もしも二人の繰り返す者がそれぞれの部分集合のなかにとらわれているとしたら?(といっても、エウアの一存でその境界をまたがさせられているだけな気もするが)あるいは、二つの経路が互いにもつれ合うようにして経路をなすとしたら?

 各々の繰り返す者の世界がそれぞれの一つの世界をめがけているとしても、二人の繰り返す者が見る世界の差異が消失することはないであろう。というのも、彼女らは互いに異なる世界部分集合内を渡り歩くことしかできないからだ。歩くことのできるそもそもの世界部分集合の差異は、世界渡りをいくら続けて経路上の世界の差異をゼロに近づけても、世界集合に引かれた世界部分集合の壁を破壊しない限り、構造的に保護されるものなのだ。異なる世界集合を渡り歩くもの同士は決して出会わない。もし、沙都子と梨花の世界渡りの終着地点が互いに背中合わせの世界であるのであれば、その二つの世界の対は私達にいったい何を告げるのであろうか。


※他にもいろいろ気になる点はある。例えば、引き継がれる情報として、なぜ記憶が選択されるのか、という点だ。別に物の配置とかが引き継がれてもいいではないか。それなのになぜ記憶が選択されて引き継がれるのか。渡り歩くものが身体を乗っ取るまで、その世界のその人は普通に生活していたのであり、記憶の上書きとはつまり精神の殺害ではないか、それこそその世界の人から見たら上書きされた人は狂気に陥っているとみなされるだろう、狂気とは精神の上書きのことである、等々。世界渡り、繰り返す者について考えるのは、ここらにしておこう。

※熱力学の比喩でいえば、記憶蓄積の不可逆性がエントロピー増大則に対応する、といったところだろうか(エントロピーは状態の不可逆性を必要十分に表現する定量的な尺度でもある。つまり、状態A、状態BのエントロピーをS(A)、S(B)とすると、S(A)≦S(B)であることは断熱操作A→Bが存在することの必要十分条件である)。EDの曲名が『不規則性エントロピー』なんていう名前なのもここら辺からとっているのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
 ちなみに、単独の孤立系では断熱的に不可能な状態変化も、他の系をつなげ、両方の系を合わせた系のエントロピーが上述の条件を満たすようにしてやれば、断熱的に可能になる。世界の「熱的死」によって袋小路に陥った繰り返す者を助けるのは、第二、第三の繰り返す者なのかもしれない。


※「宇宙の熱的死」について
熱力学によれば断熱系の自発的な状態変化(の前後の平衡状態)では必ず系のエントロピーは増加している。したがって、宇宙を孤立した断熱系とみなすと、エントロピーが増大するように宇宙は時間発展し、やがてエントロピーが可能な最大値を取るような完全な熱力学状態が達成され、マクロな時間変化が起こらなくなる、と考えられる。これを「宇宙の熱的死」と呼ぶ。ただし、宇宙は時空の構造そのものが変化するモデルで記述されるらしいので、平衡熱力学の結論をそのまま適用することはできないであろう。また、我々が観測する宇宙は目下、非平衡状態にあり、平衡熱力学の意味するところのエントロピーは平衡状態でしか定義できないので、熱力学的な意味で宇宙のエントロピーが今現在増大しつつあるかどうかという議論は意味をなさない。

2.5 まとめ

 結論に代えて、以上を踏まえ、『卒』がどういった展開を見せるのか、アクロバティックな視点(つまりメタレベル)から予想してみよう。とはいっても、当然具体的な予測はほとんどできず、抽象的なメタレベルでの予想に過ぎないことをご了承いただきたい(私は繰り返す者ではないので!)。つまり、蛇足、与太話である。
 まず、積み残された問題=信念の二面性の問題は、沙都子と梨花の宥和を通して解決されなければならない。つまり、どこかで部活のメンバーの手助けを借りて、あるいは彼らを巻き込んで、梨花と沙都子は強い信念だけではない相互理解のためのコミュニケーションをとるのではないだろうか。そして、そのことを通して、勝利への執着からも卒業するはずだ。また、包摂からあぶれる個人、つまり沙都子の自身の問題も片づけられなければならない。これに関しては、世界には二種類あることと『業』ではほとんど出てこなかった詩音や悟史も関わっているのではないかとなんとなく思っている。

 




参考
[1]A・アルトー『神の裁きと訣別するため』 宇野邦一・鈴木創士訳(河出文庫)
[2]内海健『さまよえる自己 ポストモダンの精神病理』(筑摩選書)
[3]森本あんり『トランプが心酔した「自己啓発の元祖」そのあまりに単純な思想』(現代ビジネス) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50698
[4]江永泉・木澤佐登志『「どこか似通っている」陰謀論とポジティブ・シンキングはなぜ似てしまうのか』(PRESIDENT Online)https://president.jp/articles/-/44434
[5]大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か 21世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩選書)



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