『Lobotomy Corporation』&『Library Of Ruina』 考察 -Extermination of Geometrical Organ=E.G.Oにこめられた意味-

 

 『Lobotomy Corporation』とはProjectMoon製作のSCP管理風ローグライクシミュレーションゲームである。『Library of Ruina』とはその続編であり、こちらはTRPG風カードゲームになっている。本投稿では両作品に登場するE.G.Oという単語をめぐる考察を通して、『Lobotomy Corporation』という物語に一つの解釈を与えたいと思う。『Library Of Ruina』とタイトルに入ってはいるが、考察の参考として用いていることが多いために入れた程度であり、どちらかといえば『Lobotomy Corporation』についての考察が主である。本投稿はネタバレ全開であるので、気にする方は読むより前に購入してクリアすることをおすすめする。

注)記事投稿時点では『Library Of Ruina』はアーリーアクセスゲームであり、正式に発売されているわけではない。
-->2021年8月11日に正式発売されました。

 なお、両作の間で翻訳が変わった部分もあるが、本投稿では用語はすべて『Library Of Ruina』のものに統一することにする。例:アブノーマリティ→幻想体

1.Extermination of Geometrical Organ=幾何学的器官の根絶

 Extermination of Geometrical Organ、略してE.G.O。これが誰もがうらやむ大企業=翼の一社であるLobotomy社に勤務する管理職員が幻想体管理作業に取り組むにあたって与えられる装備の総称であり、E.G.Oは幻想体から抽出されたその幻想体の来歴を反映する武器・防具である。2.から5.では、Extermination of Geometrical Organ=幾何学的器官の根絶、というような大仰な名前にLobotomy社は何を託したのかについて考えたいと思う。
 ちなみに、『Lobotomy Corporation』を韓国語でプレイすればわかるようにE.G.Oは韓国語の英訳/和訳時に作られた造語ではない。始めからE.G.OはE.G.Oである。したがって、E.G.Oを英語で解釈した結果、ニュアンスが変わってしまいもともとの言語にない意図を予測してしまう、ということは英語から考察する限りないと思う。


 なお、『Lobotomy Corporation』において、E.G.Oの正式名称がExtermination of Geometrical Organであるという根拠となる一次資料は、ゲーム中の管理人向けマニュアルと作品世界内の新人管理人向けのマニュアルを模した『Lobotomy Corporation』2017年8月9日(水)アップデートのアップデートノートである。もしかすると、ストーリー中で言及があるのかもしれないが見つけられなかった。ゲーム中の管理人マニュアルではE.G.Oについては軽く触れている程度なので(E.G.O(Extermination of Geometrical Organ)は、幻想体に対抗するために製造された装備です程度)、ここではアップデートノートからE.G.Oに関する部分を一部引用しよう。直接確認したい場合はSteamから確認することができる。

 

8. WEAPON DESCERIPTION
E.G.O

 
We learned that we have to use Abnormalities to fight against Abnormalities. E.G.O (Extermination of Geometrical Organ) are the weapons created to fight against Abnormalities. There are two types of E.G.O, E.G.O Weapon for attacking purpose and E.G.O Suits as defense gear. As E.G.O.s are created by prototype extracted from Abnormalities, you can attack and defend an enemy with RWBP methods.

Then why do argents have pistols?
Those are just common pistols you can see anymore. This is off-the-record information only you can access, but those pistols are not to fight against Abnormalities. In the argent manual, it says the pistol is for self-defense and emergency purpose, but in the end, they will realize what it's for.

How do you acquire E.G.O?
(中略)


Abnormalities and E.G.O are both originated from prototype of humankind unconsciousness. Please remember, that argents, Abnormalities, and E.G.O.s are all essentially human when you grasp the deep facts.

(誤植と思わしきものは適宜修正した)このマニュアルはなかなかブラックなことが書かれていてとても面白い。例えば、初期装備の拳銃は自衛のためのものではないようだ。幻想体もE.G.Oも本質的には人間、人類であり、人類の無意識の原型から取り出されたである……らしい。ここでいう人間とは生き物としての人間というよりは人間という理念と捉えたほうが適切だろう。
 


 Lobotomy社のオフレコの話をここでばらしてしまったので私はLobotomy社直属のフィクサーに消されるかもしれない。一級フィクサーでも雇おうかしら……冗談はさておき本題に入ろう。



2.自我としてのE.G.O

 第一義的には自我、つまりEGOとかけている。これは考察というより事実である。『Library Of Ruina』においてE.G.Oらしきものを自発的に発現したキャラクターに関してアンジェラによる次のような言及があるからだ。

アンジェラ「「E.G.O」みたいね」
ローラン「「E.G.O」?エゴ?自我のことか?」
アンジェラ「くだらない言葉遊びよ。本質は同じ。自我の殻、心を実体化したものよ」

と、これだけなら話はここでおしまいである。だが、E.G.Oはこの装備の正式名称ではない。正式名称は、Extermination of Geometrical Organ=幾何学的器官の根絶、である。物理的に発現した自我の殻という程度の意味だけならEGOという名前に最初からしておけばよいのに、Lobotomy社ではわざわざこの長い名前が幻想体から抽出された装備の総称として採用されている。正式名称がそうであるからには理由があるはずで、であるならば、なぜそのような正式名称を持つのかを問わねばならない。


3.去勢としてのE.G.O

 ここで、organの意味を辞書で確認してみよう。

organ 〔noun〕
1. a part of the body that has a particular purpose, such as the heart or the brain; part of a plant with a particular purpose
2. (especially humorous) a PENIS: the male organ
(中略)
5.(formal) an official organization that is part of a larger organization and has a special purpose

(オックスフォード現代英英辞典 第9版より)

 organは第一の意味としては心臓や脳といったある特定の機能をもつ身体の部分であるが、第二の意味として、男根、という意味があることがわかる。これに注目してみよう。そうすると、こうなる。Extermination of Geometrical Organ=幾何学的男根の根絶=去勢。そう、つまりE.G.Oの第二義的な意味は去勢なのではないだろうか。このニュアンスを持たせるために、Lobotomy社はわざわざExtermination of Geometrical Organという長い名前を正式名称としたのだ。

 それはさすがに連想が過ぎると思う方もいるかもしれない。だが、あながちありえない話ではないと思う。というのも『Lobotomy Corporation』にはフレーバーとして精神分析学の用語がいたるところにででくるからである。例えば、幻想体管理における抑圧作業のフレーバー(抑圧作業をしていいるときに管理室内ウィンドウに出てくる言葉)では、ヒステリーの処理、スーパーエゴの注入、リビドー分化といったような精神分析学に端を発する言葉が見受けられる。『Lobotomy Corporation』では管理人=プレイヤーであり、プレイヤーの見ている画面が管理人の見ている画面と同一のものであることを暗示するゲームデザインになっている。したがって、プレイヤーが見ている管理作業中のフレーバーは管理人も目にしていていると考えられる。ということは、プレイヤーが目にする精神分析的用語はLobotomy社内で意味が通じるものであり、普通に使われているのではないだろうか。つまり、精神分析的用語を踏まえてLobotomy社が事象に名前をつけることは十分にあり得るということである。また、ストーリーの中においても、無意識は死を目指しているというフロイトの死の欲動を想起させるセリフやそのものずばり生の本能、死の本能(これらは欲動という方が適切かもしれない(※1))という単語も出てきている(原型の抑圧といった単語や集合的無意識を示唆するかのような人類の深くを流れる川という単語もあるので、平等を期すのであれば20世紀の心理学といったほうがよいかもしれないが)。

 さて、ここでいう去勢とは何かについての説明に入ろう。フランスの精神分析家、哲学者であるラカンによれば、人間は幼児的万能感の傷つきとともに自身の不完全性を受け入れ、その不完全のもとに自己を積極的に確立するという。ラカンはこの意味において幼児の万能感が傷つくこと、自らの限界を知ることを去勢と呼んだ(したがって、ここでいう男根、去勢とは比喩的な意味である。また、この説明はファルスの影も形もみえずざっくりし過ぎかもしないが、詳細に分け入ってもE.G.O考察にはつながらないと思うのでここではゆるめに解釈している)。ここで、『Library Of Ruina』でフィリップがE.G.Oを自発的に発現したシーンを思い出してみよう。フィリップがE.G.Oを発現したのは、誰かのためという一見利他的な心性は都市においては利己的な心性でしかなく、実際は危険極まりないという現実を受け入れ、むしろそういう意味で利他的でしかありえない自己を積極的に背負い、事務所仲間を失った痛みと悲しみとともに起き上がるという選択をしたときであった。ここに去勢の契機をみてもよいのではないだろうか。つまり、フィリップの誰かのためという心性はフィリップ自身の想像の世界においてでしか利他的でなく、現実では利己的でしかありえず、”利他心”を持ってしまう自分は都市では利他的でいることは出来ないということを認め(=去勢)、どうしても消せない、都市の言葉で利己的と呼ばれてしまう”利他心”を持つ自分を、むしろ積極的にそういうものでしかないとして立ち上げると決めたとき、フィリップはそういうものとして自己を確立し、それとともに確立した自我が物理的にE.G.Oとしても発現したのではないだろうか。E.G.Oの契機には去勢がある。それをLobotomy社は知っていたのだ。


※1 ドゥルーズ的な意味で死の本能といっている可能性がないわけではない。

4.組織化に対抗するものとしてのE.G.O

 E.G.Oのほかの意味を考えるために、もう一度organの意味を確認してみよう。organには男根という意味のほか、特定の機能をもつ身体の部分という意味やより大きな組織の一部分としての一組織という意味もある。『Lobotomy Corporation』&『Library Of Ruina』の世界では、社会組織はある特定の機能を有する(人間とは限らない)身体のアナロジーでとらえられることがある。例えば、翼を統べる頭やその手先である爪、目、あるいは裏路地の指である。それらの意味とorganの字義通りの意味である、大きな組織のうちの一組織という意味を踏まえると、organは翼や裏路地の組織といった集団を暗示しているとも考えられるのではないだろうか。『Lobotomy Corporation』および『Library Of Ruina』の世界においては、翼や頭といった集団は互いに深く関連しあい、相互依存し、ひとりの力ではどうしようもないほどに絡み合っている。この世界の人々はそういった関係のしがらみによって縛られており、だれもが不自由である。例えば、『Library Of Ruina』では都市について次のような言及がある。

アンジェラ「都市では誰もが不自由ってこと。みんなどこかに縛られているということよ。自分がやりたいからできることはないみたいね。フィクサーは事務所の命令を、事務所は協会の命令を受けて命を投げるの。組織もそう変わらないように見えるし。みんなどこかへ向かっているけど決まった目的地はない。これは自分で決められることでもないし。流れに身を任せ、同じ方に向かっているだけよ」

アンジェラ「自由にはなれるけど、実際そうでもないわ。むしろ自由を望んでないように見えるの。自分以外の何かに従いたがっているの。時には所属で時には他人による評価で自分自身を定義するのよ。本質が脆すぎるせいで、殻がなければ自分を特定できないから流されていくの。そう、都市の人は病気に掛かっているというのはこういう意味でしょうね……」(※0)

 また、『Lobotomy Corporation』ではこの世界の人々について次のような言及がある。

アンジェラ「構造化された枠に合わせることが幸せなことだと暗示をかけないと生きていけない世界だと言っていました。歴史と過去の宗教を探す者など存在せず、また誰もそれを望みませんでした。世界に必要な技術という名目の下、「特異点」と呼ばれる新技術を利用した企業が誕生しました。」

 要するに、都市の人々は翼の特異点という技術革新にかまけ自分がどういう存在であるかといった精神的次元について他者に頼るという状況を受け入れるうちに、より上位の者の統制なくしては生きていくことができなくなった挙句、その状況自体が再生産的に自分がどういう存在であるかについて考えさせない社会的状況を生み出す、という苦境に陥っているのである。

 このことを踏まえると、個人を不自由にする個人の組織化に対抗するものとしての武器という意味がExtermination of Geometrical Organ=幾何学的器官の根絶=E.G.Oの第三義的な意味であると考えてもよいのではないだろうか。光の種を植えられた個人はE.G.Oを発現する可能性があるとLobotomy社創設の時点ですでにAが見抜いていた可能性は十分にあると思う。というのも『Lobotomy Corporation』のラストにおいてゲブラーが、一人一人に光の種を植えた結果、自分だけのE.G.Oを発現する人がでてくる可能性について言及していたためである。翼を創設してしまうほどの天才であったAがこの可能性に気づいていなかったとは考えにくい。要するに、Extermination of Geometrical Organという名称には、都市の人々が手づからE.G.Oをとり、それでもって翼や組織というしがらみを断ち切る、つまり再生産的に人々の苦境を生み出す社会的条件を破壊することが願われていたのではないだろうか。


※0 完全に余談になるが、この都市の病は作中の都市のみならず、大きな物語や超越的な価値が失墜した現代の我々が生きる世界の兆候でもある。

5.器官なき身体をもたらすものとしてのE.G.O

 ところで、もっと素朴に器官の根絶というと、フランスの演劇家・詩人アントナン・アルトーの詩に登場する言葉である、器官なき身体(※2)を連想する方もいるのではないだろうか。まず、器官なき身体について言及されているアルトーによる一節を引こう(※3)。

人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。
決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

   神、
   そして神とともに
   その器官ども。

私を監禁したいならするがいい、
しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。

そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
まるで舞踏会の熱狂のようなもので
この裏とは人間の真の表となるだろう。

出典
A・アルトー『神の裁きと訣別するため』 宇野邦一・鈴木創士訳(河出文庫)p44-p45

 ここにExtermination of Geometrical Organ=器官の根絶が重なって見えはしないだろうか。器官が人間を不自由にしている、だから器官なき身体をつくってやれば、人は自由になることができる……。器官の根絶とは、人間の不自由という対価のもとに頭、目、爪といった器官が機能することで秩序を作り上げている都市に対する当てつけのようではあるまいか。Aはアルトーのこの詩の一節を受け、そのニュアンスを含めてE.G.Oを命名したのだ(※4)。……読者諸氏の言いたいことはわかる。アルトーの詩を踏まえなくても、4.の意味ですでに頭や目に対する当てつけにはなっているだろう、アルトーの詩という余計な仮説などオッカムの剃刀で切り落としてしまえ、こんなところだろうか。だが、それではせいぜい都市の仕組みを破壊する程度の意味しか出てこない。そこにはLobotomy社の真の目的である、都市の病の治療=心と自由を取り戻すこと、が欠けている。理念も名称に込められていると考える方がより味わい深くなるではないか。

 先に示唆したように、ここでいう器官とは人間を機能に縛り付け、人間の持つ可能性を閉じ込める、そんな観念である。都市の人々は都市の歯車として馬車馬の車輪のように与えられた機能だけを回し続ける。時に主体性なるものが顕揚されたとしてもそれは都市にとって都合の良い、そういうものとして呼び掛けられる、そんな”主体”でしかありえないのだろう。都市は機械のような人間が欲しいだけである。始めから構築すべき”主体”など決まってしまっているのだ。そんなものをどうして主体性などと呼べようか?そして、その割には都市の人々は自由を望んでいないようにも見える。それゆえ人は自分に与えられた役割のみを演じる、つまり都市の一器官の器官として機能するのみ(※5)。諸個人が一器官として統合的身体を構成することでさながら生き物であるかのように都市は活動する(ここでは仮にこれを都市の病と呼ぶことにしよう。こういったものが都市の病の一症状であることは4.で引用したアンジェラのセリフからわかることである)。

 器官なき身体は個々人が与えられた役割を全うすることで都市が動いていくという都市有機体モデルに対する異議申し立てである。口がものを食べることだけに使われないように、足が必ずしも歩くためのものではないように、器官は他なるものへの用途へと常に開かれている。都市の人々=器官の器官の可能性は常に開かれている。そういう可能性の総体として常に人々はそこにあり得る。器官なき身体は都市の複雑に絡み合う諸力間の絶えざる闘争関係の中で自由ではいられない人間を解放する、潜勢的な源動力である。Extermination of Geometrical Organ=器官の根絶には、そういう理念が込められているのだ。


※2 器官なき身体は原語でcorps sans organesであるので、E.G.Oのorganと器官なき身体のorganesの翻訳時に器官という語がたまたま和訳の上で似通ったということはないと思う。

※3 余談になるが、この一節はカルメンの思想に似ているように思えはしないだろうか。そもそもカルメンは都市の人々が患っているを治すためにLobotomy社の前身となる組織を立ち上げたのである。

※4 現実世界の人間がフィクションの中にもいたのだ、あるいはフィクションの世界は我々の世界の未来像だという主張は、はっきりとそう明示されていない限り私の好むところではない。だが、ここでは妄想力を投下したいと思う。根拠はない。

※5 こういったもっとも都市的なものに苦しんできたのが、光の種シナリオのために気の遠くなるほど長い間舞台調整を行ってきたアンジェラだったというのはなんとも皮肉なことである。

※※ ドゥルーズは器官なき身体に欲望諸機械を対置したが、『Lobotomy Corporation』 における字義的な類似性は偶然であると思う。だが、『Lobotomy Corporation』ラストでアンジェラは欲望を持つ機械であることが示唆されているだけになにやら関連性を想像せずにはいられない気もする。もしかすると、都市の人工知能倫理改定案の背後にある思想をこの視点をヒントに考察できるのではないだろうか?

6.都市の病の治療法としての脱人間=〈Lobotomy〉

 ここまで3つの観点からE.G.Oの意味を考えてきた。最後にE.G.Oに共通、あるいは矛盾する心性から『Lobotomy Corporarion』という物語について考えてみよう。ここで提示したE.G.Oの意味は相矛盾する二項に分けられる。一方はどちらかというと保守的な自我、去勢という契機。もう一方の極には革新的な人間の解放、器官なき身体という理念である。E.G.Oは相矛盾する意味によって彩られているのだ。

 思えばこれは当然のことかもしれない。カルメンの理想は究極的には実現不可能であるからだ(※6)。治療できない病をそれでもなお、治すにはどうすればよいのか。道は一つである。問題系を成立させている前提を覆してしまえばよい。そこで『Lobotomy Corporation』でLobotomy社が選択した都市の病の治療法が、人間をやめ、人間以上の存在になること、であったのだ(※7)。具体的には、それは光の種を通して器官なき身体を遍く都市の人々に作ってやることである。これは『Lobotomy Corporation』ラストから想像することができる。おそらく光の種の影響をもっとも間近で受けた管理人Xとアイン(そしておそらくは管理職員とセフィラも)は『Lobotomy Corporation』ラストで未来と過去、精神と肉体、空間と時間といったあらゆる境界が融けた世界を見ているが、これはまさに、例えば主体を統御するという機能に縛られた精神や世界に物理的影響を与えるものとしての肉体といった器官、あらゆる器官という器官が、その役割から解放され、他なるものへの可能性に開かれていった世界であり、管理人Xやアインは器官なき身体を獲得することを超えて、いうなれば器官なき身体そのものになってしまったである。彼らがこうなったのは、光の種にそういう効果があり(※8)、彼らがあまりに光に近かったためにLobotomy社が意図する以上の効果を発揮してしまったのだろう。つまり、Lobotomy社は光の種を通して都市の人々の身体に器官なき身体を作ろうとしたのだ。ここで、あくまで器官なき身体とは、諸力間の絶えざる闘争関係の中で自由ではいられない人間を解放する、潜勢的な源動力であって(※9)、それとして表に出てくる表象可能な何かではないことに注意されたい。だからこそ、種なのだ。


 なお、この都市の病をめぐる解決不可能な問題系は続編である『Library Of Ruina』に引き継がれているように思える。だが、『Lobotomy Corporation』とは違ってこちらでは都市の病に立ち向かう術として器官なき身体を作ることは(いまのところ)採用されていないように思える(もうLobotomy社はなくなり、都市の病に真っ向から取り組む人はいないのだから、それはそうかもしれないが)。むしろ、まるで衣装を付け替えるかのように行為の仕方を変えること=コアページやバトルページを変えること、で諸力間の絶えざる闘争=権力の作用点である主体を物理的にも精神的にも脱中心化し、主体は行為によって実行されるものであり、常に今の在り方=身体(!)に必然性はないと暴くことで、人をしがらみから解放、可能性へと開こうとしているように見える。都市の病に立ち向かう戦略を変えたのだろうか?アンジェラとその一同が都市でどんな物語を紡ぎだすかは今後の更新を待つばかりである。


※6 これは自己は他者との絶えざる圧力関係の中で規定されるものであり、完全に他者とのしがらみから解放されれば、同時に自己も解体してしまい、自分が誰であるかを見失ってしまうためである。そして、これは都市の人々の他者とのしがらみの中で身動きが取れず不自由な割に自由を望んでいないように見えるという都市の病のアポリアに対応するものでもあるのだろう。

※7 都市の人々に人間という理念を取り戻すというカルメンの試みは最終的には人間から脱することとして結実した。ここに矛盾をみとめる人もいるだろう。だが、ここに矛盾はない。人間とはそのうちに”人間的”なるものと”非人間的”なるものを抱え込む錯綜した存在なのだ。

※8 光の種にそのような効果があるであろうことは『Library Of Ruina』での次の発言からわかる。なお、図書館の司書は崩壊した元Lobotomy社本社の職員とセフィラとアンジェラである。

ローラン「ここの司書は一体何だ?人間ではないみたいだし……だからって機械や人工生命体でもないみたいだし。」

このあとに続くアンジェラのセリフによれば、この図書館の司書は人間から生じたものであり、こき使われた果てに壊れてしまい、薄くなってしまった存在を人間の体と本で縛り付けているだけだという。

アンジェラ「人間から生じて、散々こき使われた末に捨てられたの」

アンジェラ「壊れてしまったの。まともな形を維持できないまま、すぐにでも消えるかのごとく薄くなってしまった存在を人間の体と本で縛り付けているだけよ」

※9 器官なき身体が潜勢的であるからこそ、器官なき身体としてXとアインは光となって散らなければならなかった。


7.終わりに

 いろいろ書き散らしてきたが、ここではProjectMoonが提供する『Lobotomy Corporation』&『Library Of Ruina』の魅力的な世界観に触れることができなかった。この世界には義体、魔法、超技術、ディストピアなど本投稿で取り上げなかった興味深い背景がたくさんある。ここではあくまで都市の精神的な面を主に取り上げただけである。
 わりと長いこの文章をここまで読んできたのにも関わらず、この両作品をプレイしたことのないという奇特な方がいるのであれば、ぜひ一度プレイしてみてはどうだろうか。奥深い世界設定と魅力的なキャラクターに惹かれること間違いなしであろう。もちろん、ゲームとしての面白さも申し分ない。

8.ちなみに

 一番好きな幻想体は3月27日のシェルターである。なんども職員を壊滅させてくれたかわいいやつである。個人的に『Lobotomy Corporation』の職員配置画面のUIが好き。
 『Library Of Ruina』で一番お気に入りの階は(いまのところ)ティファレト階。戦闘中の背景とBGMと舞台の上で動き回る小さいティファレトが好き。







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