血迷って新幹線に飛び乗った1年前のこと
1年前、呆れるほどに綺麗だった駅舎の夕暮れ。
もうそろそろ27歳が終わるなぁと思って、お酒を飲みながら1年間の振り返りを。
27歳、ひと言で言うと「血迷って血迷って、落ち着いた」そんな年だった。
まあ主に恋愛沙汰が大きく絡むんだけど。
(私の仕事はいつでもぬくぬくとこなせていて、ありがたいことに血迷うことは少ない。安定と楽しい刺激に満ちた仕事生活を送れていることにただただ感謝…)
クォーターライフ・クライシスって知ってる??
(“♪知らないと君は言う”って合いの手入れたくなっちゃうね)(きのこ帝国だね)
26の終わりから27にかけて、
今思えば全てクォーターライフ・クライシスだった。
20代半ばでぶち当たる壁、クォーターライフ・クライシスに、私もまんまとぶち当たっていたなぁ。と今からわかる。
兎にも角にも、(私の人生これでいいの?!)(この選択でいいの?!)と慌てふためき、ええい!と無鉄砲に舵を切り、(こうなったからにはこうなるんじゃない?!)という何かの迷いと焦りに突き動かされた一年だった。
クォーターライフ・クライシスについて知ったのは27になる前のことだったと思う。知った頃は(ほへ〜そんなことがあるんだぁ)と呑気に読み流していたけど、まさにその道のりをしっかりと辿ってきたことを、最近になって自分で認められるようになりました。ひと回り大きくなったなぁ(涙)
この危機(クライシス)にはいくつかのフェーズがあるらしい。
この一年を振り返ると、危機(クライシス)ゆえの激動がたびたび訪れたなぁと思う。知らず知らずのうちに、このフェーズに忠実に生きてきた(生きてきてしまった?)。
以下が私のクォーターライフ・クライシス。(これが私のアナザースカイぽくいうけど、以下は私の恥ずかしいほどに必死だった歴史)
フェーズ1:3年半付き合った遠距離彼氏と別れたかった
付き合う期間が間延びした、と思っていたのは私だけで、向こうは向こうなりにタイミングを見計らっていたのだと今ならわかる。この上ない愛情を絶やさずに伝えてくれていたし、私を溺愛してくれているのは常々感じていた。
でもそこに胡座を書いた私は、(いつまで遠距離してるんだ??早くこっちに来てくれよ)(もっと私を好いてくれる人が、案外近くにいるんじゃない??)と思ってしまった。
このままの生き方でいいの??周りは第一次入籍ラッシュだけど??という、年齢からくる焦りもあったんだろうな。 思い切って別れたら、新しい何かが始まるのかもと期待した部分もありました。
その勢いのまま、私を少しチヤホヤしてくれる外野の存在に舵を切ろうとして遠距離彼氏にお別れを告げたのが26の春だった。
3年半一緒にいてくれた人へ、あの時はごめんね。
今思えば、周りは周り、私は私。その当たり前すら見失うほどに勝手に焦っていた。何を見誤ってしまったんだまったく…。
フェーズ2:この人とならトントン進む…!という大誤算
長く付き合った人と別れて、その次にお付き合いする人とはトントン進んでゴールイン♡
という世間のまやかしに目が眩み、 「こ、これはトントン…!♡」を一方的にぶちかました。
しかもこの私、この大誤算を2度もやらかしています。(2度目は27の冬、相手は職場の人)
何かを手放したら新しい風が吹くんだ。そう言い聞かせるように、新しい誰かが私の人生をどこかに導いてくれることを期待した。
遠距離彼氏と別れる頃にいい感じだった人と、「も、もしやこの先トントンと…?!」と何度夢見たんだろう。
相手の転勤により互いの居住地が近くなり、仕事での関わりもあり、相手のスケジュールを熟知していた私だった。
外堀は埋まりまくって、あとは当人同士の気持ちの確かめ合いだけと当時は真剣に思っていた。
ぶっちゃけると遠距離彼氏と別れる前からデートはしていたし、別れてからもたびたび会っていた相手。
なのに私、もう鼻息荒く気合いだけは十分だったのに、何度会っても「彼氏と別れたんです」と言えなかった。
それを口にしたら「はい私、勝手にゴングを鳴らしましたんであとはあなた次第で〜す!」と宣戦布告するようなものだと感じていたから。 家に招いて手料理を振る舞う図太さはあるのに、それを告げる勇気だけが出なかった。
相手もしっかりした人なのか私にさほど興味はないのか、はたまた仕事に精を出したい人なのか、ある境界を超えてくることはなく、ただ会って過ごすだけの関係だった。
この時の私は内心(これだけ環境は整ったのに付き合えないなんて…!泣)(この人とお付き合いできたとて、相手は仕事頑張りたい人だから結婚はまだまだ先だろう)と先のことばかり気にかけてしまい、相手が私に向けてくれる優しさに全く気づけなかった。一日一往復のラインにも相手への興味と労りが込められているなんて、当時の私はまっっったく理解できていなかった。とんだバカヤロウだ。
7月の三連休でこの人と海に出かけたのが最後のデートとなった。海鮮丼を食べて、防潮堤に登り、白い砂浜をひたすら歩いたデート。話すことが途切れたってぎこちなくはない、今思えばとても良い時間だったのに。
その夜、(楽しいと思えなかった…やっぱり元彼なんだ…)と壮大で突拍子もない勘違いをし、その2日後にこの相手のラインを既読無視した。その翌日に元彼にラインをし、それから3日後、つまり海のデートから1週間後に私、元彼に会うために新幹線に飛び乗った。
この焦りはなんだったんだよ、と今なら思う。何に対してこんなに焦っていたんだよ。何も壊れていないし、何のリミットも迫っていなかったのに。
フェーズ3-①:一度ほどけた縁はやっぱりほどけたままだった
当時デートしていた相手は風の谷に住んでいた。
東西を山脈に囲まれたのどかな村。その村の真ん中に静かな小川が流れている。
山脈の尾根には白くてデカくてかっこいい風車が数台並んでいて、その人の家からも風車が見えるらしい。私は勝手に「風の谷の人」とか呼んでいた。
その村を突っ切った先に新幹線が停まる駅がある。 車で村を横切りながら後ろ髪を引かれる思いをし、駅のホームで一度振り返ったもののズンと一歩を踏み出した。左足からいったらしい。それがちょうど1年前。
(この人じゃないならやっぱり元彼なんだ)という、今思えばなんとも烏滸がましい確信だった。相手からしたら良い迷惑だったろうな。
でも私が東京まで会いに行くと、元彼はまるで先週も会っていたよねと錯覚するような優しい表情で迎えてくれて、2人で真夏の蒸し暑い首都圏を遊び歩いた。 セミの声が降り注ぐ川越神社で鯛のおみくじを引いたし、高円寺でかき氷も食べた。真夏のピークはここだった。
「この人の隣なら、私はしっかり息が吸える」と本気で思った。親が子を思うような惜しみない愛情を、私にたっぷりと与えてくれる人だった。夜にはちゃんと私から「やっぱりやり直したいです」と伝えた。逆プロポーズの覚悟で。
2人で月曜を有給にして、私が行ってみたかった蔵前のカフェにも行った。そのカフェで「実は2000万の投資を始めたんだよね」と打ち明けられた訳だけども。春に私が振った時点で、元彼も将来の方向性を定めなおしていたこと、2人でやり直すとなるとそれが大きな障壁になることを知った。 それから少し時がたち、10月に荷物を送り返してこの関係性は全て終わった。
ほんと、私の迷いに巻き込んでごめんなさい。 迷いを断ち切りるために勢いだけで別れを告げ、結局迷いを捨てきれず会いに行ってしまった自分がどれほど愚かだったのか。自分のことしか見えていなかったし、それはとても狭い視界だった。 豆粒程度の視界だった。 「とんでもない回り道をしたなぁ」と昔の自分を照れ臭く思う反面、あの時は本当にごめんなさい、どうか東京で幸せにやっててください、と相手に対して切に願うよ。
フェーズ3-②:どこか地に足つかない日々を過ごす
と、ここまで27歳をまたぐようにして激動の季節だった。自分で躍起になってドラマを演じようとして、ただの空回りだったようにも思う。
とにかく、もがいた。 何かに迫られるように自分で自分に判断を迫り、究極の選択をしたつもりになっていた。これもすべてクライシスのせいだった。
そして、「誰とどんなふうに生きていきたいのか」を見失い、心の拠り所も特にないまま迎えた誕生日。
27歳になった日の日記には、「27の抱負は、地味に生き抜くこと、パッと離脱しないこと」と記してある。
この頃は私、本当にいつ死んでも良かった。 (こうして言葉にすると気を害する方がいるかもしれません、ごめんなさい)
私がいなくなったところで誰かが特段困ることはないし、何も成し遂げられない浮ついた生き様だし、自分の人生をデザインする気力もなかった頃だった。
仕事はそれなりに楽しくて友達もいる、親も祖父母も健康で自分も五体満足、このどれもが当たり前じゃなくてとてもありがたいことだと頭ではわかっていたけど、でも自分には何もない、なんのエネルギーもない、と常に低空飛行なモチベ。
1年前の夏は(いつ死んでも良い)が物事のベースにあった、本当に不健康な夏だった。
で、秋に遠距離元彼と本当にご縁が途切れ、タイミング良すぎるテンポで仲良くなった同僚とはトントンと関係性が進んだ。そして勢い余ってトントンと終了(これが2度目の大誤算)。なんで〜〜〜と呆れて迎えたひとりぼっちのクリスマス。クリスマスに恋人がいないなんて高校生以来でした。
フェーズ4:まっさらの私と生きる、新たな世界を知る
27の冬にして、まっさらの私、誰にも頼らず自分の足で立つしかない私に出会う。
ラインや通話で誰かと繋がることで越えてきた幾度とない夜が、すべて自分の時間になった。 お正月休みも連休もこれまでは特定の異性と過ごすのが当たり前だったのに、24時間がすべて自分の時間となった。これまで生きてきた世界とは別の世界のように感じられた。
最初は心細かったし(どうやって過ごそう?!?!)とソワソワしたけど、少しずつ、ワンアクションずつ勇気を出して新しい世界を開拓していくようになる。
(前にも後ろにも動かなかった自分の人生、やっと踏み出してまっさらになったんだから)とこの頃には思えるようになっていた。新しい風を察知して掴むアンテナだけはずっと張っていたおかげで、チャンスがあればここぞとばかりに、新しい世界に飛び込んだ。
・勢いで新幹線を予約して函館ひとり旅にGO
・勇気を出してインスタdmを送り、新しい居場所と出会う
平日夜に集まって数人で食卓を囲む、そんな夜が増える
・日本一周に挑むnoteの旅人に声をかけて海街を案内する、刺激をもらう
海街の色々なスポットに私の居場所がちゃんとあり、私の選択を応援してくれる優しい人々に支えてもらったおかげだと思う。
この頃は充実感で満ちていた。形のある愛、形のない愛を毎日のように受け取っていた。
そんな日々の中で、「誰かと共に過ごしてきた私」から、「自分で自分を楽しませられる私」へ、ゆっくりと変化できたのかもしれない。
フェーズ5:転勤が転機になったようだ(座布団1枚?)
この時期にちょうど転勤も重なり、否が応でも環境の変化を経験することに。
せっかくできた居場所と愛おしい海街を離れることは寂しすぎたけど(今でもロスだよ)、よーいスタート!で始まった怒涛の新生活のおかげもあり、愛だの恋だの言ってる暇もなくなった。
とにかく毎日が刺激的で、私の関心は「仕事8割生活2割」ってバランスになった。 「生活」に2割も関心を割けていた春の私、我ながらよくやったと思うよ。(ここでいう「生活」ってのは、スーパーやドラストがどこにあるのかを覚えることとか、資源ごみの日を覚えることとか、大きなパン屋さんと小さなマフィン屋さんを発見したこととか)
これまでよりも数倍規模の数の人々と関わるようになり、とにかく人と話すことが楽しい。もっと勉強したいと思うし、もっともっと己の内面を磨きたい。仕事にゆとりが出てきた頃、自然とそう思うようになっていた。
ひと月前くらいに高速道路を走っている時、ハイウェイパトロールカーが「事故多発、スピード注意」って書いた掲示板を光らせながら走っているのを追い越した。追い越しながら(……いま、死にたくないよなぁ)とごく自然に考えている自分に気がついてハッとする。あれ、私、今死にたくないんだ。いつ死んでもいいと思ってた頃があったのに。
あの頃は何をどう考えてそう思っていたんだろう。今の私はどうにでも描ける自由な未来があって、健康な体と、楽しい友達と、自由に使えるお金と、必要なものはなんだって持っているのに。
そう思えたあの高速ドライブで、私は危機(クライシス)を乗り越えていたことを知ったんだ。
27の終わりに思うこと
私の27歳はこんな一年だった。
側から見たら、とんだ回り道、恥の記録、人生の停滞期とか言われるかもしれないけど。
この道のりを自分の足で歩んできた私はそうは思っていませんよ。
傷つけた人もいる。謝りたい人もいる。
ご縁が途切れた人もいれば、新しく友達になった人、途切れたと思っていたらまた繋がれた人もいる。
いろんな人に助けられて、サラッと手を差し伸べられて、時には自分から一歩踏み出して、泥まみれになって歩いてきたよ。
血迷った1年間を経た私、今は自分のことも自分の身の回りもとっても大切に思えている。
人とのご縁はゼロかヒャクかで白黒つけられるものでもない。時にしっかりとご縁が結ばれる時期もあれば、ゆるりもつながる時期もある。自分にとって必要な人と必要なタイミングで関われるようにできている。
今の私の周りにいてくれる人を大切にしたいなぁ。
と、クォーターライフ・クライシスをなぞりながら私の27歳の総括でした。
もう少しで誕生日を迎えて28になる。どんな一年になるんだろう。私はどんな目標を立てるんだろう。
今はすごく心が軽くて、28歳の私がどうやって人生に色をつけていくのか楽しみで仕方ない。仕事でできるようになりたいこと、日々の暮らしの中で大切にしたいこと、自由にやってみたいこと、いきたい場所、たくさん、たくさんあるよ。
楽しんでいきたいね。
27歳の私、ふわふわと離脱せずに生き抜いてくれてありがとう。私と関わってくれたたくさんの人、ありがとう。
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