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とある受験生の日記 2021/1/9

今この文章を書いているのは一月十日の昼間なのだが、昨日の日記を書いていこうと思う。本日をもって、「その日起きた出来事を記録する」という日記の規則が破綻したと言って良いだろう。面目がない。

昨日から三連休がスタートし、実力テストを終えて新たな心地で勉強に取り組むことが出来た。とりあえず授業の予習などは午前中のうちに終わらせてしまい、午後は冬休みのうちに満足にこなすことが出来なかった理科科目のノート作成や問題演習などをした。「焦り」という無駄な感情がないと、驚くほどスムーズに学習が進む。「急がなきゃ」と思うほど「急げなく」なるなんて、人間の脳というものはどうしてこう面倒くさい作りになってしまったのか。

その日は久しぶりに、家の裏山へ散歩に行こうと決めた。

我が家は東北のとある田舎に建っている。十年ほど前にリフォームをしたのだが、外壁がアルミの様な素材で覆われおまけに平屋という佇まいのため、改築早々に家族からは

「小屋じゃん」

と一蹴されてしまった。意気揚々と進めたリフォームを一瞬でdisられた父の胸中を考えると、何ともやり切れない気分になる。

そんなことはどうでもいい。とにかく私は午後三時ぐらいになると、ジャンパーを羽織ってイヤフォンをつけ、山へ向かった。物理のワークを解いていた途中であるが、とりあえず休憩である。冷たい風が心地いい。

山道の入り口に入ると、「工事中につき通り抜けできません」という立て看板が鎮座していた。どうやら奥にあるため池が崩壊したらしい。私が山道を散歩する大きな理由に、「人目が気にならない」というのがある。普通に近所を散歩するとなると、どうしても「誰かが見ているのでは」と持ち前の自意識過剰っぷりを発揮してしまうため、かえってストレスがたまる。そのため周りに誰もいない、いるとしたらイノシシしかいない山を歩くのが好みなのであるが、そこに工事の作業員の方々がいるとなったら計画は大頓挫である。そんな状況で散歩を強行したら私はすぐさま「工事現場に迷い込んだ猫背寝ぐせ少年」へとなり下がり、ショックのあまり山籠もりをすることになりかねない。「奇怪! イノシシに育てられた少年」というタイトルで『奇跡体験!アンビリーバボー』に特集を組まれ、ビートたけしに紹介されて剛力彩芽に引かれるのだ。

そんな人生は御免である。私は逃げるようにして、横にあった別の道を進んだ。コンクリートで舗装もされていない、普段は行かない道である。歩くたびに雑草や落ち葉を踏みしめる柔らかい感触がして、雪もまだ残っている。山を奥まで進んでいくのではなく、家の裏側を周っていくこの道。私はこの道から見える風景を、あまりよく知らない。

こんな感じの道である。途中、本気でイノシシが来ないかと心配になり、もしもの場合に備えて頭の中でシミュレーションをした。しばらく真剣に考えこみ、最終的に「ジャンプでかわす」という不毛な結論に辿り着いた。

山道を歩いていると、新しく道を発見することがある。自然が織りなす複雑な風景に目がだんだんと慣れていき、

「あ、良く見たらここ道になってんじゃん」

と気づくことがある。

この日も私は、そういう発見をした。以前来たときは完全な一本道だと思っていたが、よくみたらさらに山の上へと繋がる坂があったのだ。地面は木の葉に埋もれているが、紛れもなく道である。

私の冒険心は簡単に火をつけた。幼少期は「危ないところに行っちゃだめヨ」という教えを素直に守り、自分の身が危険にさらされるのを本気で避けていた人間である。山の奥に秘密基地を作ったり、友達と探検に出かけたりということはほとんどしなかった。それが高校二年生になり、中途半端に「勇気」というものを持った。その結果が裏山の冒険である。高校生の「冒険」といったら、思い切って一人旅に出かけてみたり、海外に留学してみたりとそういうスケールの大きな物事な気がするのだが。

むなしさがつのる。がしかし、辺りを囲むのは見たこともない景色である。

古ぼけた電柱のようなものがあった。こんな何もない所に、どうしてだろう。自販機とか置いてくれればいいのに。

歩を進めるにつれて、森が深くなる。気づけば辺りは竹林であり、何だか道が整っている。

何処に繋がっているのだろう。家のすぐ近くのはずなのに、現実世界とは遠く離れた、幻想的な世界があるような空気だった。

なんだ?

おおっ?

広い……

なにここ凄ぇ!!

地面を踏む音が、風の音に混じって耳に伝わる。空から直にやって来た、透明な風である。広い原っぱが広がっている。小学生の時にこの場所を知っていたら、私は休日の度に友達を呼んで、ここで遊んだことだろう。

ちょっと遅かったか。

腹が立ってしまうくらいに、この世界は複雑である。遠いアルプスの地にしかないと思っていたこのWindowsの壁紙の様な風景が、我が家から少し歩いた山の上にあったのだ。私はそんなことなど想像もしないまま、呑気に鼻をほじって生活をしていた。美しい風景が、私が生まれる以前からずっとここで待っていたのにもかかわらず。

今までの短い人生の中で、私はいったい幾つの風景を見逃してきたのだろうか。それはそれは狭い視野を光らせながら、慎重に毎日を生きてきた。けれどこうやって新しい世界に触れると、少しだけ視野が広がったような感覚がある。

視野が広がれば、見える風景が増える。沢山の素晴らしい世界を見逃さなくて済む。受験勉強に耐え忍んで大学に合格するという「道」の脇に、それとは別の多くの「道」があることに気づくだろう。

私はそれが怖い。大学受験を控える中で、自分が今まで歩んできた道に対する信頼を失ってしまえば、私は自分そのものを信じることが出来なくなる気がする。果てしない時間をかけて並べたドミノを不注意で倒してしまうような恐怖がある。

だから私は、視野を狭めようとする。道の途中に立つ案内標識を、出来る限り減らそうとする。変化を求めず、「まずは目の前の事に取り組もう」と言うご立派な思想を盾にして、「勇気」を持っていない自分自身を必死で正当化する。近所を散歩することも出来ずせいぜい家の裏山を歩くことが出来る程度の、しがない「勇気」である。

これといってすることもないので辺りをぐるりと歩き回った後、私は来た道を戻った。ものの数分で家に着き、また勉強を始める。

「だよなぁ。オマエ結局帰ってくるもんなぁ。もっといろんな景色を見たいとか言って遠くに行ったりしないもんなぁ」

机に放置されていた物理のワークが、残念そうにそう言った気がした。